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「バツいち」と言う言葉が市民権を得ている。日本では毎年、二十八万件ほどの離婚がある。身近なところに離婚の話を聞くことは珍しくない。「不幸な結婚は、子どもにも可哀想だ」などと、別れることを促すアドバイスがなされることもある。しかし、当事者と家族には大きな痛みが伴う。離婚した家庭にはどんなことが起きるのか? 子どもたちは何を感じ、どうやって立ち直り、また生きて行くのか。当事者は語りにくいし、周りの者もめったに聞くチャンスはない。

70年代前半からアメリカの離婚家庭の131人の子ども達を25年間追跡調査をしたジュディス・ワラスタインは、離婚家庭の子ども達は不安や怒りや見捨てられる恐怖にとりつかれるという。「両親が離婚を宣言した日に、自分の子ども時代は終わりました」と語る子がおり、「傷は一生残る」と語る人もいた。心身の健康、そして学校の成績までも影響を受けることがある。
いのちのことば社フォレストブックス編集長の鴻海誠(こうのうみまこと)さんは、それを子ども子どもとして如実に味わった。遠い過去の記憶をたどりながら、鴻海さんはご両親の離婚と再婚にまつわる半生を語った。

両親の離婚と再婚              鴻海 誠

両親は、敗戦直後の当時で言う外地、台湾で結婚しました。家が近所同士であり、親まかせの結婚だったらしいです。私から見た母方のお祖母さんが、気性が激しく仕切りたがる人で、このお祖母さんが結婚を決め、また別れさせたと聞いています。結婚はさせてはみたものの、一人娘の親から見たら、だらしない婿だなと思えたんでしょう。母は、「泣く泣く別れたんだ」と、別れのシーンを今でも話してくれることがあります。ですから、まだ愛情はあったんです。私が三歳の時です。
父は、婿養子で、離婚によってその養家を出て、私は母方の姓を名乗りました。以来、十八になるまで父とは会う機会がありませんでした。

幼い時の自分は、「よその家にはお父さんという人がいるのに、自分の所は変わっているな」とは感じていました。母親は働きに出ますから、おじいちゃんおばあちゃんに育てられたわけです。だから、父ばかりか母も不在です。四国の松山に住んでいましたが、私が十歳の時に、母親が、私の家に下宿していた七歳年下の大学院生と恋愛関係に陥って、「結婚したい」と言い出し、親戚を巻き込んでてんやわんやになったようです。しかし、ついに親の反対を振り切って東京に出てきました。私の十歳の時です。

●新しいお父さん
最初は、「お父さんが出来た」という気持ちでした。突然目の前に現れた人ではなく、下宿時代から、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と親しんでいた男性です。「この人がお父さんになるんだ」と、嬉しかったのを覚えています。

しかし、そこにはきびしい現実がありました。東京に出て、義父は初めて就職しました。そこに手のかかる連れ子がいたらどうなるかは、想像できるでしょう。二十代半ばで、十歳の子どもを持ったわけです。子どもも新たに生まれてきます。生活に追われ、家の中がギクシャクし始める。そういう中で、「自分は、この家庭ではいてもいなくてもいい存在だ、いやむしろ、いないほうがいいんじゃないか」、そして「高校に行くお金はあるのかな? まして、大学なんか恐らく無理だろう」と、中学くらいになると見えて来ました。

でも、勉強はわりと好きで、学校で一、二番を争うような友だちと仲良くしていたもので、自分も同じような将来を見ていました。しかし家では、「大学はやめておきなさい、高校だけはなんとかするから」なんていう会話が交わされるわけです。田舎でひとり息子のおぼっちゃんとして育てられていたのが、都会ではえらく変わり果てた生活が待っていました。
黙っていても反抗心がわき上がる中学生の思春期で、「俺をこんなにしたのはあいつらだ」みたいな気持ちになりました。特に義理の父親に対しての憎しみが強かったですね。父親とはいっても、年がそれほど離れていないから、怖い兄貴みたいな感じでした。型にはまったことが好きな人でして、「丸坊主にする」とか、「テレビは見せない」とかいう方針に私は馴染めなかったです。「部活はやるな、勉強しろ」とも言われました。愛情が感じられればついていけたんですけどね。
「お金は出せない、自分で生きて行けよ」と言われたり、義父の母が、九州から出て来て面倒見てくれと転がり込んで来たり、色々な葛藤がありました。松山の祖母もやはり同居することになりました。二部屋か三部屋しかないところに、夫婦と私と新しく出来た二人の子どもと、両方の親達がいるという、訳の分らない生活が一年か二年続きました。もう雑魚寝です。

●「出て行け!」
中学三年の時に、カッと来て義父の母親をつい殴っちゃったんですよ。義父方のおばあちゃんから見れば、子連れの嫁さんは、堪え難い人なんです。「手塩にかけて育てたうちの息子を、子連れの嫁がこんなにした」っていじめるんです。ささいなことですけど、私が、ちょっと暴力を奮っちゃったんです。帰って来た義理の父から、「出て行け!」と言われました。

結論として、私は実父の親戚筋へ預けられることになりました。母も、一度は家を出ましたが、新しい子ども達への責任もあると言うことで、もとに戻る形でおさまりました。叔父が東京の東久留米市にいたので、私はそこに丸一年間世話になりました。中学三年から高校一年にかけてです。

ただ、転がり込んだのはいいものの、いつまでもというわけには行かず、元に戻ったり、母方の祖母と暮らしたりして、最終的には、高校三年のときに、物心ついて初めて実の父親に対面しました。父は、再婚して色々仕事で苦労はしたようですが、その頃はだいぶ豊かになっていて、「お前ひとりくらいなんとかするから、来い」ということで、一番お金のかかる時期に世話になりました。でもそこにも、新しいお母さんと子どもがいるわけで、色々ありましたが、最終的に「お金は出してやるけれども、うちには来るな」と言われまして、留年も含めて大学に七年いたんですが、その間、親とほとんど会わない生活をしました。
当時は、被害者意識が強かったんです。「親に、俺の人生をこういうふうにされた!」と。私には、親たちが、自分の幸せだけを求めている姿しか見えなかったんです。心の中は彼らに対する憎しみに満ちていました。

●子どもにも心がある

当時は、今ほど離婚がポピュラーではなかったですから、「片親の子」はクラスに一人か二人しかいない。父兄の欄に母の名前が載ることに、ある種の劣等感を感じました。もうひとつ、母親は離婚後に嫁に行って姓が変わり、父親は元の姓に戻った。私は、母親の実家の姓を名乗る。つまり実の親子なのに、三つの姓がある。届け出る書類の保護者欄にも、母の再婚後の姓を書くわけです。そういうことが、あらゆる場面で出て来ることが心に重く残りました。離婚がもたらす、そういうマイナス面、子どもの心に残すものに、親は案外無頓着です。お金を出してちゃんと学校に行かせるということには責任感があるようですけど、子どもの心に残すものについては、離婚する親達は低く見ていますね。

それから、「やっぱり、親がちゃんとしていなくちゃね」とか「ふた親が揃っていなくちゃね」という言葉を聞きます。確かにそれは一面の真理ですが、こちらはかなり傷つきますよね。「自分が気づいた時に両親がそろっていなかった子は、しっかり育たなくても仕方がないのか」という気持ちになります。親への励ましとして語られることばなんだろうけれど、大人のなにげない言葉が、子どもの心には残りますね。

また、親となってみて、自分の中に家庭像が身についてないことに気づくんです。「仲良くやろう」くらいのイメージはありますよ。しかし、親に逆らうような子どもの人格をも認めながら、家庭の秩序を保っていくには親はどうしたらいいのか。一般には、育って来た家庭の中で身につけて、じゃあ自分はどうしようとかと考えて行くんでしょうけれど、私の場合は、そういう所がすっとんでいる部分があります。それが結果的には、自分の子どもにも影響を与えてしまっているのかなあ、とこの十年くらいは感じさせられてきました。

結婚してしばらくは、両親の離婚で苦しんだことは過去のものになっていたんですが、そのうちまた、人生の場面場面でむくむくと常に顔を出して来るんですね。親の傷ついた過去が、子どもの世代に連鎖して繰り返されて行くという感じがしてならないです。離婚率の高い親の世代に育てられた子ども達が、これからどういう社会を築いて行くのかと思うと暗然とします。

私は、目上、また権威ある男性への従順さというものを学んでいないんです。そもそも自分の世代には反体制的な風潮があってそれにまぎれていましたが、それがあらゆる所で出て来ましてね。格好よく言えば、反骨精神、野党精神があるんですけど、家庭に父がいる状態を知らないことから来る偏見でしょう、上の立場の人に素直に向き合えないところがあります。

●結婚することの重み
  十八歳で父と再会してから、父が亡くなったのは私の三十五歳のときだったので、その間だけのかかわりでした。父の言葉ですが「親に別れさせられた」というのは、無責任だと思ったものです。家庭を守る気が本人にあったのかなかったのかが、はっきりしない。「自分の人生をめちゃめちゃにされた」と、まるで被害者っていう感じです。そういうことばを、息子に対して言ってほしくなかった。大学に行かしてくれたのは、確かに愛だと思いますよ。でも、お金で換えられないものがあるじゃないですか。「俺が至らなくて、お前には悪かった、申し訳ない」という一言があれば良かったんですが、ついに出なかったですね。
  母も、「お父さんがだらしなかった、おばあちゃんもおばあちゃんだ」と、自分が当事者でないかのように言うところがあって、これじゃいけないなと思っています。自分にも責任回避するところがありますから、親をさばく気はないんですが、もし自分が当事者だったら、これではいけない、子どもの前では「私の責任だった」と言わなくちゃいけないんではないかと強く感じます。協議離婚を認める判子を押したのは、ほかの誰でもない自分なわけですから。結婚するっていうことは、それだけの重みのあることだと思います。

●離婚した方々に望むこと
  実母は、「自分の子は大丈夫、このくらいのことには耐えられる、耐えさせなくちゃ」と思っていたらしいですが、親と子の受け止め方はまったくちがいます。子どもにはやはり、「自分は愛されていない、居場所がない」と考え、屈折して行く傾向があることを、親は察知していて欲しいなと思います。とりあえずはうまくいっているようでも、どこかで警戒心というかデリケートさが出てきますから。
また、思春期には、義父から「もっとスポーツや勉強に励め」と言われて、こんなことを悩んでいる自分のほうがいけないのかなと思いましたが、今考えてみると、「それとこれとは問題がちがう」と思います。ただでさえ、親子の対話が不足しがちな時期ですから、血のつながらない親子はますます疎遠になって、子どもが寂しい思いをします。ですから、親の側から対話を増やす努力をしてほしい。

●本当に頼れるもの
生みの父母、そして育ての父に頼れなかった私ですが、結果的にはそれが聖書の神を知るきっかけになりました。
どこに鬱憤を吐き出していいのか分らなかった大学生の時に、デール・カーネギーの「道は開ける」という本を読みました。そこに、
「この故に明日の事を思いわずらうなかれ。明日は明日の事を思いわずらえ、一日の労苦は一日にてたれり」
とあるのを見ました。それまでどんなに苦しんでも、宗教やキリスト教のことなど考えもしなかった心に、ポッと何か光がともったような気がしました。近くの教会で集会があると言うチラシをもらったのは、それからまもなくです。
そういう中で信仰を求めた者の一つの弱点は、自分の罪になかなか気づかないことだと今は思います。「自分の受けた傷のいやしのためには、主にお頼りすればいいんだ」ということで回復する部分があります。ただ、加害者としての自分という立場に立てない。「被害者」を貫いてしまう。受洗の時に、「罪人です」と形式的には告白したかもしれないけれど、本当にそう思ったのは、家庭を持ち子どもを持ち、向き合わざるを得ない問題に出会った時で、そこで初めて自己中心だとかごう慢さだとかを砕かれることになりました。

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」
と言われるキリストは、だれからも見捨てられてきたような惨めな者に手を伸べて立ち上がらせてくれました。本当に頼るべきお方はイエス・キリストの父なる神だということを知ることが出来たんです。

(一九四七年生まれ。いのちのことば社 フォレストブックス編集長。妻と大学生の息子の三人家族。)

編集の仕事で、水野源三さん、レーナ・マリアさん、星野富弘さん、三浦綾子さんなど障害者と言われる方々に取材し輝く生き方を見聞きするうちに、自分の痛みも分かち合うことの大切さを学ばされたと言う鴻海さん。過去を振り返ったのも、単にぼやくためではない、痛みを持つ人に福音を届けるには、自分の痛みを分かち合う道を避けられないという確信のゆえだ。最近手がけた『たいせつなきみ』(フォレストブックス マックス・ルケード著)などの絵本は、一般読者にも好評を得ている。『やっぱり、生きるってすばらしい ?私がイエスに出会った時』の中に、自身が信仰に入ったあかしが収められている。
「これからも、世の中の人の痛みを共有できる本づくりをしていきたいですね」
さらなるご活躍を期待します。


FFJ 
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