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 『ダヴィンチ・コード』
 

 三年前に発売された米国人作家ダン・ブラウン作の推理小説『ダ・ヴィンチ・コード』が、世界中で四千万、
日本でも五百万という驚異的な売上げを示し、2006年五月には人気俳優トム・ハンクスを主役にした映画も公開されました。
  「推理小説の域をはるかに超えた作品」と絶賛する人がいる一方、「いや、単なるでっち上げである」と断言する人も少なくありません。評価が異なるのは、その注目するところが違うからです。
  これが単なる推理小説なら、読みたい人が読んで楽しめばいいので、他人がどうこう言う筋合いはないのですが、歴史的事実とかけ離れたことを書きながら、作者は「この小説に登場する美術、建築、文書また秘儀は、正確な事実である」とわざわざ冒頭で主張するので、私たちは「本当はどうなのか」を冷静に見きわめる必要に迫られます。
  それができれば、この超ベストセラーが描き出している「キリスト教」を鵜呑みにする家族や友人がいた場合にも、聖書と教会の歴史を正しく説明することができるでしょう。
  すべてのクリスチャンは、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(第一ペテロ3章15節)と、勧められています。

 ◆あらすじ

 オープニングで、ルーブル美術館の館長が殺されます。被害者は死ぬ前に、キリスト教会と聖杯(キリストが最後の晩餐で用いた杯)について「15世紀の間隠されていたメッセージ」を暗号にして残します。たまたま仕事でパリを訪れていた宗教象徴学を専門とするハーバード大学教授ロバート・ラングドンと、パリ警察の暗号解析官ソフィー・ヌヴーが、図らずもチームを組み、残された手がかりを追います。それを助けるのが、聖杯について豊かな知識を持つリー・ティービングです。その間、彼らはラングドンを館長殺しの犯人と疑う警察に追跡され続けるため、読者はページめくる手間さえもどかしく感じます。

 ◆もうひとつのすじ

 しかし、物語にはもう一つ重要な筋があり、これが議論の的になっているのです。特に、キリスト教の起源に関して多くの事実誤認があります。
  著者は、冒頭で大胆にいくつかの「事実」を述べ、小説の中に編み込むので(これが小説家の巧みなところなのですが)、一般の読者は、事実とフィクションを混同します。教会史や聖書を知らない人やクリスチャンになって間もない人は、ストーリーの面白さに引きずられて、キリストや初代教会について作者が言うことを無批判に受け入れてしまいます。
  実は、本書について説得力のある反論がすでに多く出ており、ミリオンセラーである『ダ・ヴィンチ・コード』が事実をわい曲したことを明らかにしています。この記事は、それらの書籍や雑誌に負うところが多くあります。

 ◆作者が「真実」と主張していること

 では、小説が「事実に基づく」と言うことはどんなことでしょう。例を挙げてみます。

・「キリストが神である」という教義は、コンスタンチヌス帝が自分の権力を固めるため、政治的な意図をもって325年のニケア会議で決議した作りごとにすぎない。
・イエスは神ではなく人間であり、マグダラのマリヤと結婚していた。
・イエスとマグダラのマリヤとの間の娘サラが、フランスの王家と婚姻関係を結んだ。
・本当の「聖杯」とは、イエスが最後の晩餐で用いた杯のことではなく、実は人であり、聖なる女性としてのマグダラのマリヤである。本来は彼女が、教会のリーダーになるはずだった。
・この説に与する人の中には、アイザック・ニュートンやレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。ダ・ヴィンチは、作品の中に数々の手がかりを残している。(本のタイトルはここから来ています)

 ◆これらの欺瞞の源は?

 言うまでもなく、聖書を知る人にとってこれらは途方もない妄言です。著者はどこからこういう考えをもってきたのでしょうか?
  ブラウンは、トマスの福音書、ピリポの福音書、マリヤの福音書などを含むグノーシス主義(東洋・ギリシャ・ローマの宗教観念の混合)の福音書から引用します。これらの多くは、2〜3世紀またはそれ以降に書かれた偽典で、実際には名指された聖書の人物によって書かれたものではなく、四福音書で知られるイエス・キリストの歴史的な出来事でもありません。もうひとつ専門家が指摘しているのは、1980年代に出版された荒唐無稽な大河小説『レンヌ=ル=シャトーの謎ーイエスの血脈と聖杯伝説』(マイケル・ペイジェント他)の焼き直しに過ぎないということです。
  しかし、ブラウンはこれらからの引用を織りまぜながら、結局キリスト教信仰は真実ではなく、「キリストが神と言うのは作り話だ」と言います。
  事実に反する主張の一つを挙げると、「キリストの神性は325年の教会会議で作り上げられたのだ、わずかな差で可決されたにすぎない」というブラウンのことばです。これは、ニケア会議についての無知を表しています。
  キリストが神であることは、会議で決議されたのではありません。会議は、すでに教会内に広くあった教えを認めただけです。それに、ニケア信条に署名しなかったのは三百人以上の司教たちのうちたった二人です。「わずかな差だ」とは言えません。
  また「コンスタンチヌス帝は80もある福音書の中から、キリストを人とするものを省き、神とあがめるものだけを選んで聖典とした」とブラウンを決めつけていますが、信頼される聖書学者たちによれば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、それとは関係なく、すべてのクリスチャンが最初から用いていたものです。

 ある学者は、「ブラウンは、サスペンス小説の境界を越え、キリスト教会と福音を攻撃するという明白な目的を持って書いた」と言いますが、これは正しい指摘でしょう。
  とにかく面白いもの、刺激的なもの、そして権威の揚げ足を取るのに格好な醜聞に飢えている大衆の低俗な求めにぴったりあったことが、爆発的な人気の背後にあると思われます。

 ◆信仰の土台を確かめるチャンスとして

 正統的キリスト教に対するダン・ブラウンの異論はみな、最近出て来たものではなく昔からあったものです。キリスト教は当初から異端の攻撃にさらされており、霊的な戦いは教会の誕生時からありました。
  ペテロも、第二の手紙でこう警告しています。
  「あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします」(第二ペテロ2章1-3節)
  (ちなみに、本小説では倒錯した性の表現や場面がしばしば表れます。誰でも気軽に楽しめる書物ではありません。)

 二十年ほど前に「キリストの最後の誘惑」という映画が公開され、これをキリスト教への冒涜と考えたクリスチャンたちが、熱心に上映反対署名運動を展開したことを覚えておられる方も多いでしょう。(キリストとマグダラのマリヤが出てくる点で、本編と似ています。)でも、結果的にはPRの役割を果たしてしまったと言えます。やみくもに反対しても、かえって逆効果です。
  『ダ・ヴィンチ・コード』には、娯楽としての魅力がないことはないのですが、事実とフィクションとを交え全部が真実であるように思わせて、キリスト信仰を攻撃していることが困りものなのです。
  けれども、作者が事実だと主張する事の、どこがどう歴史的な事実と違うのかを冷静に見極め、それを友人にも説明できるなら、これはかえって良い証しのチャンスになるのではないでしょうか。いや、むしろ、クリスチャン自身が、聖書と教会の歴史を改めて学び直し、自分の信じた事が確かな事実であることを知る必要のほうが大きいかもしれません。
  聖書は、攻撃されればされる程、ますます輝きを増す書物です。そうなれば、このベストセラー小説から思いもかけない「贈り物」をもらうことになるでしょう。幸い、『ダ・ヴィンチ・コード』の誤りを分かりやすく指摘する、日本語の本と雑誌記事がありますから、参考にしてください。

 「それによって、すでに教えを受けた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます」
(ルカ1章4節)
  「ただし、優しく、慎み恐れて、また正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう」(第一ペテロ3章16節)

(文責ーファミリー・フォーラム・マガジン 編集部)

日本語の書籍
○ハンク・ハネグラフ他『ダ・ヴィンチ・コード その真実性を問う』いのちのことば社
○ホセ・A・ファボ『<反>ダ・ヴィンチ・コード ー嘘にまみれたベストセラー』早川書房
○竹下節子『「ダ・ヴィンチ・コード」 四つの嘘』(文藝春秋2006年六月号)

 


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