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聖書が語る親密な関係  テモテ・コール

「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)。聖書の初めには、人間の本質についての大切な真理が述べられています。それは、私たち誰もが、一人ぼっちでいたくない、孤独でありたくない、誰か他の人間と親密な関係を持ちたいということです。更に、聖書が言う「ふさわしい助け手」は、男性の立場から言えば女性であり、女性の立場から言えば男性です。つまり、人間は異性との親密な関係を求める性質を持って造られているのです。そういう親密な関係を表す一つの英語の言葉は"Companion"(「コンパニオン」)です。この言葉は、英語の聖書のマラキ書2章14節で結婚相手(「伴侶」)を指して使われていますが、皮肉なことに日本の社会では、孤独な男性たちが訪れるスナック等で働く女性を指して使われています。夫婦関係に本来あるべき親密感が得られないため、お金を払ってでも、それらしき「コンパニオンシップ(親密な関係)」を求める日本人男性の姿に、上記の聖書の真理が反映されているのかもしれません。

親密な関係を求める性質を持って生まれてきた人間に神が与えられたもの、それは結婚です。聖書は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)と述べています。更に、結婚によって結ばれた人間同士にとって最高の親密な関係は、二人が一つの体になること…すなわち性交渉を持つことです。そのような性関係は、二人の心や感情、また人格を深く結びつける「接着剤」のようなものです。二枚の紙をのりで貼り付けてからそれを引き離そうとするならば、当然両方の紙がぼろぼろに裂かれます。それと同じように、私たち人間も多数の相手と性関係を持つならば、その度絆が築かれ、そして引き裂かれ、二人とも心が深く傷付くのです。ですから神は、私たちの真の幸せのために、一生同じ一人の異性の相手と結ばれて生きることを定めたのです。

性の現実

しかし、私たちの身の回りの現実は、それとは全く異なった様相を見せています。2002年1月に東京都幼稚園・小・中・高等学校性教育研究会が行った調査によると、都内の男子の37.3%、女子の45.6%が高校を卒業するまでに性体験をしています。今年、4月に高知新聞に掲載された、高知県、高岡地区の養護教諭らが県内約2000人の高校生を対象にした調査結果を見ると、この数字と同等の結果が出ていて、これが都市部に限られた現象ではないことがわかります。

ほとんどのハリウッド映画も未婚者同士の性関係を当たり前のものとして描いており、学校での性教育も「セーファーセックス」(より安全な性)の理論に基づいて、学生たちにコンドームの使い方を教え、セックスをする時は自分と相手を「守る」よう教育しています。ファッション、宣伝広告、ゲーム、漫画、音楽等のあらゆる分野でもセックスを通して人々を引き付けようとし、アダルト系のインターネットサイトも、世界中で毎年何倍もの勢いで増加しています。そんな現状の中、産婦人科医は20代の日本人25-30%に広がる性感染症の現実を嘆いており、望まれない妊娠の問題、人口妊娠中絶の問題、セクハラの問題、子どもの性的虐待の問題、精神的な病の問題等…結婚外の性体験によって人々がより幸せになっているなどとは決して言えません。

他者を知るとは?

私が大学生だったころ、週末になると多くの友人が女の子を誘ってデートに出かけて行きました。寮に帰って来るとお互い「おい、彼女とどこまでいった?」―手をつなぐ程度で終わったのか、キスしたのか、あるいはその先へ進んだのかをみんな知りたがっていたのです。私自身は人のことより、自分が女の子と付き合う時「どこまでいっていいのか」が分からなくてずっと悩んでいました。牧師や先生はただ、「体の触れ合いのレベルが深まれば深まるほどストップがかかりにくくなるから、まだブレーキが利くところで止めておいた方がいいよ。」としか言ってくれません。何故かそんなアドバイスに納得できなかった私は、結婚して子どもができてからようやくその明確な答えを得ることになりました。ヒントとなったのは、聖書が「セックス」や「性交渉」等を意味する言葉として、「知る」という言葉を使っていることに気付いたことでした。つまり、聖書によれば、性関係の本質は「結婚している二人が互いを性的な面で、親密に知ること」だと分かったのです。だとすると、未婚者にとっては「どこまで」の問題ではなく、性的刺激や性的楽しみが始まった時点において「知る」過程がスタートしているため、それは神様の計画から外れた性的親密感になってしまうのです。

私たちが他者と親しくなる場合、五つの要素があります。視覚による刺激、会話のやり取り、身体の接触、感情面での刺激、知的面での刺激、という接触のかたちです。二人が互いに出会う時、まず目を合わせ、アイ・コンタクトを持ちます。互いに話しかけ、互いに感情的な刺激・反応があり、知的面での刺激・反応があったりします。また、握手を交わしたりするかもしれません。男性と女性の交際を車の運転に例えてみましょう。二人は上記の接触の要素を現す5車線の「ふれあい道路」を進むとします。初めはわりとゆっくり進みます。二人はただの友達です。しかしその後、その関係が深くなるにつれ、「時速」も加速します。そしていずれこの先は有料道路になるので、料金所に行き着きます。先へ進むには条件があります。そして条件を満たすか、料金所を突破して悲惨な結末を迎えるか、二人は選択しなければなりません。この料金所の名前は「性的親密さ」、そして有料道路の行き着くところは性交渉です。もちろん聖書が述べるその利用条件とは、異性間の一夫一婦制による生涯の結婚の誓いです。何故でしょう?第一の理由は、前にも述べたとおり、神がセックスを創造されたのは、夫婦が親密になるための接着剤の一つであるからです。第二の理由は、神が再生産の目的のためにもセックスを創られ、子どもの成長にとって最善の環境が、生涯の契約を交わした両親のいる家庭にあるからです。

さて、この「ふれあい道路」の例えから学ぶもう一つの原則は、どの接触の要素の「車線」で結婚せずに料金所のラインを超えても「違反」としてかわりないということです。目で情欲を満たすなら(例えばポルノの様なもので)、視覚的刺激の車線で「違反」になります。あるいはロマンス小説を読んで、感情面の車線で性的刺激を味わうことも同じ様に「違反」です。性的な刺激をもたらす会話も勿論です。同じ様に、女性が男性の近くでセクシーな服装を着ることは男性への「違反」へのお招きになるので、それも問題です。どの「車線」ででも結婚外の性的刺激を味わうことは神様の素晴らしい計画から外れることで、悲しい結果に至るのです。

アブステナンス

結婚まで性関係を持たずに待つことを、英語で"Abstinence"(「アブステナンス」)と言います。アメリカの学校では性教育の代わりに「アブステナンス」教育を勧めているところが増えています。日本のマスコミではそれを「禁欲教育」と呼んでバカにしていますが、採り入れられている地域において若者の性病感染率や妊娠率が劇的に減少していることは明らかです。やはりティーンエージャーの一人一人でさえも、自分たちが生物学的偶然や単なる動物としての性欲に支配されているのではなく、限りない価値を持って神の形に造られたものであり、「性」という宝を持って生まれてきていることを、心の奥底に感じているのではないでしょうか。

性は実に、私たち一人一人が持つ、神から与えられた素晴らしい宝です。この宝を結婚外の関係によって失うことなく、結婚のために大切に守り、結婚相手だけと分かち合う時に、その祝福も倍になって二人に戻ってくるのです。


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