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ファミリー 
ドブソン博士
  ドブソン博士の一問一答
Q.217

時々私は、世の中のすべての悪から子どもたちを守れるようなところ、私が育てられたようなところに行ければと願うことがあります。でも、そんな隠れ場などは勿論どこにもないですよね。


A.

はい、若者たちへの悪影響は、文化や国家の枠を越えています。私は色々な国を旅しましたが、ティーンエイジャーというのは、どこでも似ていることに驚きます。壁や看板などに描かれるグラフィティーアートは同じですし、その価値観や態度や服装まで似ています。なぜか。

それは、若者たちが同じ映画を見、同じ音楽を聴き、同じアイドルを崇め、同じテレビゲームをし、同じテレビ番組を見ているからです。例えば、MTVは、世界で最も人気のあるケーブルテレビです。信じられないことですが、ケニヤのマサイ族の子どもは、草の小屋に座って、アメリカと同じ番組の主人公たちがわいせつなことばや馬鹿馬鹿しいことがらを口にするのを見ているのです。

今日の若者文化は、世界のすべての大都市で見られます。私が数年前に訪ねたロンドンもしかりです。あの素晴らしく、歴史のある街は、千年以上の文化がどのように発展したかをつぶさに見ることが出きる、生きた博物館です。しかし同時に、私が見た中でも、もっとも哀れな若者たちの住む街でもあります。

ロックファンやパンクロックファンや薬物中毒者たちが、路上で何かを求めてうろうろしています。驚くなかれ、緑色とオレンジ色の髪の毛をした女の子たちが、奇妙ななりをしたボーイフレンドと町を闊歩しています。(私は、あれは男だろうと思いました)青いモヒカン刈りが、10センチも空に飛び出して。そのうちに「ガラン、ガラン」という鐘の音が後ろからします。ハレクリシュナ教徒の一団が来るのです。頭は剃り上げ、僧服を着て、踊りつつ通り過ぎます。

ゲイの集団は、手を組んでパレードし、売春婦は客引きをしている。最近ロンドンの下町を訪れた時、「一体全体、次世代に対して我々はなんてことをしてしまったんだろうか」と、立ちすくんでしまいました。

もちろん、米国でもカナダでも世界のどの国でも、同じような現象は起きています。我々の世代に大事にされていた価値観が様変わりしたことを目にするのは、ショッキングです。
娘が18歳の時に、彼女の高校の音楽科の主催したあるプログラムに出席しました。前の列に、

ダネーの友達の1人が座っていました。休憩時間に、彼女の将来についておしゃべりをしましたが、彼女は、まもなくカリフォルニアの州立大学に入ると言いました。そこへ見学に行って来たばかりだったそうですが、そこで入る寮のことで、ちょっと心配なことがあるというのです。男女が隣の部屋に住み、トイレやシャワーも同じところを使うのです。この可愛い女性が心配していることとは、そのシャワーにカーテンがないということでした!

私たちの子ども達の育っているのは、そういう世界なのです。明らかに、昔ながらの健全な価値観が大切にされている所もあるにはあります。多くの子どもたちは、正しいことをしたいのですが、危険な誘惑がそこここにあり、親もそのことを知っています。ですから、私たちは、ひとり立ちし始めたばかりの子どもが、現代の若者文化に飲み込まれてしまうのではないかと恐れるのです。そんな不安や心配に心を奪われていたら、子育ての喜びなどどこかに飛んで行ってしまいます。

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Q.218
ドブソン先生が「クリスチャンの親として最も大切なのは、子どもたちにイエス・キリストのことを教えることだ」とおっしゃるのを聞きました。私たちは最近信仰を持ったばかりで、親としても新米です。娘に信仰を伝えるには、どうしたらいいんでしょうか。

A.

その答えは、モーセが4000年前にイスラエル民族に与えた命令の中にあります。
 「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」(申命記6章7−9節)
 この命令は、家庭で信仰の訓練をする時に役立ちます。家庭礼拝は大切ですが、子どもと毎晩聖書を読み祈るだけでは不十分です。親自身が、日毎に信仰の原則に従って生きる必要があります。日常会話にも子どもとのやりとりにも、神さまの事や信仰が反映されなければなりません。イエスさまへの愛が、生活の中で最優先されていることが明らかになるべきです。私たちの信仰と情熱を伝えるチャンスを、どん欲に生かすのです。前にも言ったように、これは神が私たち親に与えた最も重要な課題だと思います。

 なぜそんなに大切な責任なのかと言えば、これから子どもたちは世の中でまったく逆のメッセージを受け取るからです。家庭においてしっかりと信仰の土台を据えておかなければ、子どもは天国に行けなくなります。ですから、親としてぼんやりしているわけにいきません。

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Q.220
子どもがすぐに飽きて集中力をなくすので、有意義な家庭礼拝が持てません。聖書を読む間も、あくびしたり、もじもじしたり、くすくす笑いをします。祈りや神のみことばを学ばせるのは、大事と思いますが、どうしたものでしょう。

A.

時間は短いことが肝心です。霊的なことがらについて、子どもを大人のペースに合わせようとするのは無理です。せいぜい4〜5分で聖書を1、2ケ所を読み、短く祈るのが学齢期前の子どもにとってはベストでしょう。永遠の真理を、永遠に続くような時間を使って子ども達に教えようとするのは、むしろ限り無く危険なことです。

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Q.221
私にとって、神を理解するのは結構大変でした。今だってどれくらい分かっているかは怪しいものです。どうやって子どもが神さまのことを正しく知れるのでしょうか

A.

イエスさまは、「わたしを見たものは、父を見たのです」(ヨハネ14章9節)と言われましたね。ですから、子どもに神さまのことを教えるのに一番いいのは、イエスというお方を教えることです。幼稚園の子どもでも、福音書にあるイエス・キリストを頭に思い描く事ができます。子どもは、霊的な真理を理解できるばかりではなく、キリストは「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。(ルカ18章17節)」と言われました。子どもには、霊的なことの理解力が、生まれつき大人以上にあります。

子どもが神について学べる2番目の方法は、お父さんお母さんを見ることです。子どもが、親、特に父親を神さまとだぶらせて見る事はよく知られています。自分が不完全で、欠点が多いことを知っている私たち大人は戸惑うのが普通です。それでも親は、いたいけな子どもたちに神さまを紹介するという恐れ多い責任を与えられています。私たちが冒す過ちは、子どもにとって大変な霊的問題となってしまうこともあるのです。

例えば、威圧的だったり、虐待する傾向のある親の子どもが、神さまを愛とあわれみに満ちた方だと考えるのは困難です。同じように、放任主義の親に育てられた子は、神さまの義を理解しにくいでしょう。

親としての最大級の難しさは、神の愛と義という2つの側面を子どもに示すことです。権威のない愛を示すことは、愛のない冷酷な権威を押し付けるのと同じように、神の御性質をひどくわい曲することになります。

本気でとりかかれば、子どもにふさわしい神理解を与えることはできると思います。教えることを通して、あなた自身が、神をよりよく知るきっかけがつかめるかも知れません。

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Q.222
「子どもは、親を神とだぶらせて見る」などと言われると困ります。とても、そんな期待には応えられません。

A.

そうです、本当にこわいことですね。

2歳の息子のライアンが、私を「神さまあつかい」した時には、ショックでした。息子は、家内と私が食事の前に祈るのは見ていましたが、それまで自分で食事の感謝の祈りをしたことはありませんでした。ある時、私の外出中、家内が何気なく、ライアンに食事の前に

「お祈りしてみる?」  と聞きました。息子は、ちょっと戸惑いましたが、小さな手を組んで、頭を垂れ、

「パパ、だいちゅき、アーメン」   と、大まじめに言ったんです。

帰宅して、家内にその話を聞いたときには当惑しました。ライアンが、天の父と私をそこまで一緒にしていたなんて考えもしませんでした。父親の責任の重さを考えると、とても自信がなく、父親をやめたいくらいでした。しかし、勿論、やめるわけにはいかない。あなたも同じです。

子どもの小さい頃、親は、神さまの代役という務めを与えられています。ですから、神さまの測り知れない愛と義をよく子どもに教える事がとても重要です。愛情はあっても、子どもが親に不遜な態度をとるのを許しているなら、子どもは、正しい神理解が持てません。一方、親が愛情の片鱗も見せない厳しいしつけばかりするのも、同じくバランスのとり違いです。子どもに神さまのことをどれほど教えられるかは、親がどれだけ愛に基づいたしつけを子どもたちに実践しているかにかかっている部分が大きいのです。

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Q.223

子どもに信仰を教えるのに、一番大切な時期はいつですか。


A.

大切でない時期はありませんが、5年目頃が特に大切ではないかと思います。それまでは、子どもは、親に言われて、神さまを信じます。サンタクロースを信じるのと同じように、疑うことなくイエス・キリストを受け入れます。しかし、5歳か6歳になると、言われたことを自分で考えるようになります。そこで岐路に立たされる子どもがいます。つまり、今までに教えられて来た事柄を消化し自分のものにするか、それとも聖書の物語なんて、実際にはありえないおとぎ話だと決めつけてしまうか。家でも教会でも、注意して教えるべき時です。

 だからと言って、5歳か6歳になるまで信仰の指導を待つべきだとか、またそれ以降が大切でないということでもありません。しかし家庭内では細心の注意を払い、また教会でベストの教師を当てるべき対象は、5、6歳児であると私は信じます。それ以降にも、岐路は確かにありますが、この時期は格別に大事です。

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Q.224
子どもの時、クリスマスは1年で一番好きなときでした。救い主の誕生についての話を聞くのが好きでした。また、イブの夜にサンタさんがやってくるのを待つという特別の楽しみもありました。私と同じような楽しみを子どもたちにも味わわせてあげたいのですが、クリスチャンの友人の多くは、クリスマスのお祝いに、おとぎ話的な人物を入れるのはまちがいだとか、有害だと考えているようです。先生はどうお考えになりますか。

A.

私にもちょうど同じような思い出があります。クリスマスの思い出は、子ども時代の記憶の中でも、一番大切なもののひとつです。イブの夜にサンタクロースがやってくるのを空想するのは、クリスマスの楽しみの大切な一コマでした。自分にとってあれほど興奮した経験を自分の子どもからは奪い取ってしまうのは、気が引けます。

とは言っても、異教的なクリスマスの祝い方について多くのクリスチャンの親が疑いを持っていることも、うなづけます。架空の話しであるサンタークロースを、ユダヤのべツレヘムで生まれた幼子イエスの事実と結び付けたくないのです。ファンタジーとごっちゃにすることによって、クリスマスの出来事の信ぴょう性を弱めてしまうかもしれないと心配するわけです。

サンタは、楽しいけれども同時に困ったことでもあるというわけです。クリスチャンの親はどうしたらいいのでしょうか。これは、それぞれの家族が判断するべき問題だと思います。シャーリーと私は、子どもたちと「サンタさんごっこ」をする道を選びました。また、イエスさまについて教えることにも困難は感じませんでした。でも、この二つを同時に教えることはできないと言う家族もいます。

何がベストであるのかは分かりません。でも、もし私がもう一回子育てができるとしたら、やはり、クリスマスイブにサンタさんが煙突からやってくるという興奮を子ども達に味わわせたあげたいなと思います。

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Q.225

子どもには、信仰について自分で決めさせるべきではないでしょうか。何を信じるべきだなどと言うことは、宗教を無理矢理に押しつけることになりませんか。


A.

自然界にたとえてお答えしてみたいと思います。ガチョウのひなは、一風変わった特徴を持っていて、お尋ねの点に関して、例えとして適切です。卵からかえったあと間もなく、ひなは自分のかたわらで最初に動いたものを親と思い込みます。これを「刻印づけ」と呼びます。その時以来、ひなは自分のそばで動く「親」に、どこまでもついていきます。通常は、生んでくれた母親に「刻印づけ」られます。しかし、母親から引き離すと、ひなは生き物であろうとなかろうと、とにかく動く物体に「刻印づけ」られてしまいます。実際、ひなは、ひもでひっぱられるフットボールの青い袋に「刻印づけ」られると、一週間後でも、そばをサッと動く青い袋についていきます。この過程において、時間が決定的な要素になります。ガチョウのひなは、卵からかえった直後の数秒間のみ「刻印づけ」をされうるのです。その時を逃したら取り返しがつきません。言い換えれば、この「本能的な学習が可能である決定的な数秒間」と言うものが、赤ちゃんガチョウの誕生直後にあるということです。

人間の幼児についても、ある種の教育が容易な、決定的な時期というものがあります。人間の場合は、本能というよりも衝動、反射、欲求というべきでしょうが、宗教的な教育によく応答する短い期間があるのです。善悪の概念がこの時期に形成され、神概念が固まり始めるのです。赤ちゃんガチョウの例と同じように、このチャンスを逃してはなりません。カトリック教会の指導者たちは、「子どもを7歳まで私たちに任せなさい。そうしたらその子を一生カトリック教徒にしてみせます。」と言いますが、その主張はおおむね正しいのです。なぜなら一生の土台となる態度や考えは、この7年間の内に形成されるからです。

しかし、残念ながら、その反対もしかりです。幼児の霊的教育の欠如や誤った適用が、子どもがのちのち持つ神への信仰の度合いに深刻な制限を加えてしまうことがあります。親が、小さい子どもから霊的な教えを遠ざけ「自分で決めさせる」と言うとき、それは、子どもが神について否定的な結論を出す道を備えていることに他なりません。親が子どもに真の信仰を持ってほしいなら、客観的であろうとする的外れな努力は、即刻やめるべきです。子どもというものは、親が自分で言っていることをどれだけ実行しているかをじっと見ています。親の側の優柔不断さや倫理的な混乱は、子どもの内面で増幅されてしまうことがよくあります。

思春期の中ごろ(15歳頃)を過ぎると、子どもは、信仰のことがらに限らず、親から押し付けられることは、何でも嫌がります。しかし、幼い時に教えるべき事を教えておけば、どっしりとした土台を据えておく事になります。ですから、小さい時の教育こそが、大人になってからの信仰姿勢を形作るための鍵と言えるでしょう。  

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「ドクタードブソンの一問一答」の翻訳については、ファミリー・フォーラム・ジャパンがティンデール社から許可を得ています。

Excerpted from COMPLETE MARRIAGE AND FAMILY HOME REFERENCE GUIDE ・ 2000
by James Dobson Inc. Used and translated with permission of Tyndale House Publishers.
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