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ファミリー 
ドブソン博士
  ドブソン博士の一問一答
Q.235

私は、神さまが奇跡をなさること、そして死人さえよみがえらせることを知ってはいます。でも、正直に言えば暗闇の中を通るような時に神に頼ることは難しいのです。それは私の信仰が足りないからでしょうか。


A.

私たちのほとんどは、人生の様々な出来事に遭遇して動揺し、おびえます。「何も思い煩わないで」というわけにはいかず、もがき苦しむのではないでしょうか。それでも、神を神としその導きと判断とを全面的に受け入れることを学べます。

さてご質問への答えですが、「信じること」と「信頼すること」を分けて考えてみたらいかがでしょう。この二つの違いがはっきりと分かる古いエピソードがあります。

ニューヨーク州北部とカナダとの境界線にある、美しくまた危険なナイアガラの滝に来ていると思って下さい。そしてサーカスの団員が、こちらからあちらにロープを張って、その上を手押し車を押して渡るとします。もしバランスを崩せば、眼下に渦巻く水にたたきつけられるか溺れるかしてしまいます。ロープに足を踏み出す前に、団員があなたのほうを向いて、「お客さん、わたしにこの離れわざができると思いますか」と聞いたとします。

あなたは答えます。「そりゃあ、高名な綱渡りのあんたのことだし、成功まちがいなしだ」と。つまり、あなたは彼が成功すると「信じている」わけです。

すると綱渡りがこう言います。「それなら、お客さん、この手押し車に乗って向こう岸までいっしょに行きませんか」「よしきた」と、この誘いに乗るにはかなりの「信頼」がいります。

ある人たちにとって、神が偉大なことがおできると信じるのは、困難ではありません。なにしろ、神は無から宇宙を創造されたのですから。神には何でもおできになります。単に神を信じる、ということなら、どれほどのこともありません。

しかし、信頼を実際に表すには、もう一歩が要求されます。そこにはリスクがからみます。神はご自分の約束を守られると、確証がなくても信じることが要求されます。事実はむしろ逆のほうを指し示しているときでさえ、信じ続けなければならない。そうです、それは手押し車に乗って、滝の向こう側まで行くことなのです。困った時の神頼みでは、不十分です。私たちは自分の命そのものを神さまの配慮に任せることが必要なのだ、と私は信じています。「信頼」は、習得できるものですが、もって生まれた気質のためにそれが難しく感じる人もいるのです。

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Q.236

主は今も奇跡を行われると信じますか。それとも、神が超自然的な介入をされる時代は終わったのでしょうか。


A.

奇跡は今も起きていることに、疑いの余地はありません。しかし、前にも書いたように、人の求めに応じて自由に奇跡を起こせるかのように思っている人々に対して、私は不審の念を持っています。私がとても恵まれていると思うのは、驚くべき神の力を自分自身が体験し、また親友の体験を通して知っていることです。中でも際立っているのは、ジム・デイビスという友人が1970年に家族とイエローストーン国立公園に行った時の出来事です。ジムは、フォーカス・オン・ザ・ファミリーのラジオ放送の中でその体験を話してくれました。その概要は以下の通りです。

「妻も私もクリスチャンホームに育ち、祈りの力については十分教えられてきました。でも2人とも、主とともに歩んでいるとはとても言えない状態でした。一緒に祈ることもなく、家庭礼拝の場も持ちませんでした。ところが、ちょうどその頃、妻が見事に変えられ、神に再献身し、私のためにも祈り始めていたのです。彼女は、私のために注解引照付き聖書も買ってくれました。それで私もみことばを学び始め、心も柔らかくされはじめてはいましたが、霊的にはまだまだ未熟でした。

その夏、4組の友人夫婦と一緒にイエローストーン国立公園で休暇を過ごしました。2日目に早速何人かでアルミ・ボートに乗って釣りに出かけました。ある奥さんがマスをつり上げて、さて網に取り移そうと乗り出したとたん、メガネが落ちてしまいました。あっという間に湖の底へ底へと沈んでいったのです。休暇が始まったばかりなのにと、彼女は困り果てました。メガネなしではドライブも読書もできなかったのです。その上、メガネがないとひどい頭痛に悩まされるのです。
その夜は皆、メガネの話に熱中し、困ったねえと話し合っていました。すると、妻が突然こう言うのです。

『困ったことなんてないわ、ジムはスキューバ・ダイビングの名人だから、きっと行って見つけてくれるわ』

『おいおい、いいかげんなこと言うなよ』と私。

『イエローストーン湖の湖岸は周囲275キロ以上もあるって知ってるかい。その上、木という木はみんな針葉樹で、どこを見てもみな同じように見えるという始末だよ。どうしたって、今日メガネを落としたところに戻るなんて不可能だね。しかも水は死ぬほど冷たいときてる。10度ですよ。水上スキーさえ禁止なんだ。それにウエット・スーツを持ってきていない。フィンとスノーケルだけだよ』

どんなに頑張って言っても、だれも聞いてやしません。妻は、メガネのところに主が導いてくださるように祈るからね、と耳打ちするのです。    何を言っているんだ、と私は思いました。

翌朝、私たちはボートに乗り込み、岸から1.6キロ程までこぎ進みました。
『えーと、どこで落としたと思う』と私が聞くと、誰かが『この辺だったと思うよ』と答えます。
というわけで私は水の中に入りましたが、ああ、その凍るような冷たさ! ロープにつかまって水の底に目を据えている私を、ボートが引っ張り回すというやり方です。水は3メートル位の深さで澄み切っていました。15メートル程の幅を決めて、行ったり来たり、掃くように捜索したのです。
20分ほどすると、私は体の芯までこごえていました。短く祈りました。主よ、もしメガネのありかをご存じでしたら、教えてくださるといいんですが。主が教えてくださるとはとても思えませんでした。何しろ大きな湖ですから。

ところが、私の中でかすかな声がしたのです。
『わたしはどこにあるか知っている。ボートに乗りなさい。そこまで連れていこう』と。
照れくさくて、このことは誰にも言わず、またしても20分たちました。私はただブルブル震えていました。私は、主にこう言いました。『主よ、メガネのありかはまだご存知ですか。もしそうなら、私はボートに乗り込みましょう』

私は、友人たちに叫びました。『ここじゃないよ、あそこだ』

私はボートに戻り、主が私に示してくださったと思われる1点を指さしました。操縦していた友人は『いいや、あそこまでは行かなかったんだ』と答えました。しかしとにかく進んでもらい、私は『ストップ、ここだ、ここがその場所だ』と止めました。

再び飛び込んで底を見ると、なんと私たちはメガネの真上にいたのです。私は底まで潜っていき、そのごほうびを持って上がってきました。神が祈りに応えてくださった、疑う余地のない体験でした。私を霊的に燃え立たせるに十分であったのは言うまでもありません。しかも、これは妻や友人たちにもすばらしい証しとなりました。イエロー・ストーン湖の底でキラッと光ったあのメガネを、私は決して忘れないでしょう」

あまりに劇的な話ですが、信憑性は私が請け合います。湖での、この驚くべき日を覚えている目撃者もたくさんいるのです。しかし、なぜ主がこういう形でご自分をお現しになったのか、なぜもっと頻繁にこういうことをしてくださらないのか、私には答えられません。明らかに、主には主のご計画と目的があり、それは私たちの知る由もないことなのです。

神が不思議な方法で働かれる例として、もう一つ興味深い実話を披露させてください。1945年、第二次世界大戦直後のことでした。クリフという若い伝道者とフィアンセのビリイの話です。2人は貧しいながらも、これから始まる結婚生活を心待ちにしていました。持ち金をはたいて簡単な式を挙げ、列車の片道切符を2枚買いました。行き先の町で、伝道集会を開くよう依頼されていたからです。この旅行をハネムーン代わりにしようと計画しました。宿泊先は町近くのリゾート・ホテルです。

ところが列車からバスに乗り継ぎ、ホテルの前で降りると、そこは軍のリハビリセンターとして接収されており、泊まり客は入れてくれませんでした。2人は見知らぬ町で立ち往生してしまいました。手持ちのお金は合わせて数ドル。近くのハイウェーでヒッチハイクするより他ありません。まもなく車が1台止まってくれ、運転している人が行き先はと聞きました。

「実は分からないんです」と2人は答え、事情を話しました。男は同情を示し、考えがある、と言います。

「この道をしばらく行くと、知り合いの夫人が食料品店を開いている。その2階には使っていない部屋が2つあるから、もしかしたら安く泊めてくれるかも知れないよ」と。

ぜいたくを言っている場合ではありません。2人はとにかく連れていってもらいました。

店の主人は5ドルで部屋を貸してくれました。その部屋での第1日目の午後、新婦はピアノの練習に、新郎は持参のトロンボーンの練習に励みました。店主は揺り椅子に身を任せて耳を傾けていました。2人がクリスチャンだと知ると、彼女は知り合いに引き合わせてくれ、その友達という人が、ハネムーンの残りは自分の家で過ごしなさいと招いてくれたのです。数日後、その人はある若い伝道者が近くのクリスチャン・コンフェレンス・センターで話をすると教えてくれました。2人は参加するよう招かれました。

その夜の賛美指導者がたまたま病気であったため、代わりに集会の賛美指導をしてくれと、クリフは頼まれます。なんという歴史的な瞬間でしょう! この伝道者が、若き日のビリー・グラハムで、この新郎がクリフ・バローズです。2人はその晩、初めて出会い、生涯を通じての協力関係が形作られました。クリスチャンの世界では周知のことですが、バローズ夫妻はその夜以来、ビリー・グラハム伝道協会のスタッフとして世界中の何千というクルセードで主に用いられてきました。有名なアナウンサーのポール・ハービーならば「それからの物語は・・・・皆さんがよくご存じです」と締めくくるところでしょう。 

この、生涯わかつことができないチームを会わせるのに、主がどれほど多くの出来事を次々と用いられたか、実に驚くばかりです。人は偶然と言うでしょう。しかし、私はそう思いません。神の御手が働いたとしか思えないのです。

聖書の時代のように、奇跡は今も起こるのでしょうか。起こります。しかし、それはたいてい私たちが信仰を働かせることを必要とする形で起こるのです。たとえ奇跡を目の当たりにしても、それが本当かどうかを信じるか信じないかは、その人自身の選択にかかっています。私は信じるほうを選びます。

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Q.237

神は人間のプライドを憎まれると先生はおっしゃいますが、それはどういう意味でしょうか。人類の偉業や発見は誇るべきではないでしょうか。現代科学、医学、芸術などに先生は感嘆なさいませんか。ある程度の自己満足や自信のどこがいけないのでしょうか。本当に神が存在するなら、人間がいつも物乞いのようにはいつくばってばかりいるのを、神が喜ばれるとは思えませんが。


A.

私の言いたかったことを説明しましょう。大学医学部の元教授として、リサーチや科学的な研究によって成し遂げられる偉業には、驚くことが多くありました。コンピューターや図書館のお陰で膨大な知識の宝を自在にあやつれる現代人は、なんと幸いでしょう。私たちはすばらしい時代に生きています。人類の苦痛をやわらげ、すべての人々によりよい人生を提供しようという努力には、何も非難すべきものはありません。進歩そのものに冒涜的なことは何もありません。

しかし、人間はもう神を必要としません、自分たちで十分やっていけますからもう結構ですというのが、現代社会に行き渡った考えで、これは本質的に悪です。そして、さらに嫌悪すべきはニューエイジです。これは、限りある命の持ち主に過ぎない人間を、神と同等に置こうとする思想です。ニューエイジは人間の頭脳を崇拝しており、頭蓋骨の中に閉じこめられた、脳と言う500グラムもないしわしわの灰色の物体が、ゼロから自らを作り出したとでも信じているかのようです。シャーリー・マクレーンの信奉者らは、うやうやしくこう宣言します。

「我々は頭脳の5%しか使ってはいない。残された可能性をすべて使い尽くしたら、どれほどのことが達成できるかを想像してみなさい」

度を越えて「人間の可能性」をほめたたえるのはナンセンスです。もし本当に、脳の働きが95%残っているなら、世界人口50億のうち一人くらいは、脳の力を100%発揮している人がいてもよさそうです。いや、もしそれが既に起こったとしても、主の英知と全能に比べたら私たちの脳など豆粒にも過ぎません。 

ここで「傲慢」ということばが頭に浮かびます。主の恵みと愛によって存在しているにもかかわらず、人類は神を宇宙の道徳的圧制者のように勘違いして、なんとか神に打ち勝とうとしています。人間は神の戒めを捨て去り、代わりに自分のちっぽけな頭からひねり出した、取るに足りない考えや思いつきと取り替えてしまいました。永遠の真理も、民族や文化を越えた価値観も、絶対的な善悪の基準も存在しないと決めつけたのが、ポストモダニズムです。その時その時に正しく見えることが正しいというのです。一人一人の無知を集約すれば真理が生み出せるかのように、世論調査によって道徳は決まるのです。その過程で、人は先祖たちが愛情を込めて受け継ぎ、次代に受け継がせようとしてきた信仰をすっかり忘れ去りました。

もちろん、傲慢は人間社会において新しい現象ではありません。イエスは、神を必要としない農夫の話をしました。彼の一生は万事うまく運ぶはずでした。その年は何もかもがうまく行って大豊作だったので、貯蔵庫に困るほどでした。他の人々は飢えに苦しんでいるのに、この金持ちの悩みは倉庫不足だったのです。

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』(ルカ12章18ー20 )

この傲慢な農夫の話を読むと、現代の有名な金持ちを思い起します。その辺のゴシップ誌を開けば、人間のおごりのにおいが満ちています。傲慢さと神への侮りといえば、ロックスターのジョン・レノンがいました。ビートルズは、聖いものと純粋なものすべてに対して反逆しました。彼らは、不快きわまりない同性愛、異性愛の乱交にふけり、マリファナやその他の強力な麻薬を若者たちにはやらせるのに力があったのです。私たちは今も、その災いの残り火に苦しめられています。彼らの音楽も、旋律が美しく手際よく出来てはいるものの、彼らの堕落と退廃ぶりを十分に反映しています。彼らは、今日のロック界の、過度な悪魔的な要素の呼び水となりました。
同時にレノンは、無神論の一大信奉者でありました。彼の作品の中で最も良く知られているのが「イマジン」という歌です。これは人類崩壊の原因は宗教だと信じていたレノンが、いっさいの宗教が存在しない世界を想定して作った歌です。愛国心や神への信仰が、戦争を初めあらゆる社会悪の原因であると彼は信じていたのです。

1966年に彼が言ったことばです。「キリスト教は消え去る。尻すぼみになる。議論の余地はない。これは絶対にまちがいがない。今に分かるよ。キリストよりもビートルズの方が人気があるんだ。ロックとキリスト教と、どっちの方が長生きできるか、そこまでは分からないが。キリストはまだしも、その弟子というのが見ちゃいられない。彼らのせいでキリスト教はダメになった」

ところが、実際に消えたのはジョン・レノンでした。1980年ニューヨークの路上で、精神病者が放った5発の銃弾に命を奪われたのです。彼の罪の報酬は死でした。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(ローマ12章19節 )と言われた方の前で、今ジョン・レノンは申し開きをしなければなりません。全宇宙の神を認めない者は、その知能や業績にかかわらず、みな愚かです。単純なことです。

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Q.238

どうしたら神の御心は分かるのですか。天から声が聞こえて来るわけではありません。人間は、神の御心をただ推し測ることしかできないのですか。


A.

とても大切なご質問です。神の御心があやふやなら、神に従えません。ところが、ほとんどの方は神の御声をどうやって聞き分けたらいいか、明確には分っていません。それで、自分の気持ちや印象に頼るのですが、それは信頼できるものではなく、神の御心を知るには危険です。感情は、大変主観的です。自分の願いや出来事や、それに昨晩の睡眠時間にさえ影響されます。神の声を聞いたと早とちりした信者たちは、時に大失敗をしました。

ある大学生の話があります。彼は、とある夜中、ある女性と結婚すべきだという強い思いを持って目をさましました。それまでに1、2回デートをしただけの人ですが、神が「この女性だ!」と言われたように思い込んだのです。翌朝、彼は女性に電話して、自分の予感を告げました。この女性は、彼と同じようには感じなかったのですが、神には逆らえないと思いました。2人は間もなく結婚しましたが、うまくいかず、ずっと苦しみ続けています。

神の御心が分ったと思い込んだ人たちについての、似たような話はたくさんあります。悪魔は「光の天使」(第二コリント11章14節)として来ることを思い出してください。つまり、神の声の偽物をつくり出すという意味です。突然に受けた思いや予感を、人間が無批判かつ衝動的に受け取るようにしむけることで、悪魔は人間を混乱させ、幻滅させることができます。

感情や予感によって神の御心を判断するということに関して、私は南カリフォルニア大学の博士課程を終了して、博士号を授与された日のことを思い出します。教授たちに握手をしてもらい、祝福のことばをかけられ、それまでに熱心に求めてきたものをついに得てキャンパスを後にしました。その日、車で家に向かいながら、私はそれまでの人生における神の祝福を感謝し、これから御心のままに私を使ってくださいと祈りました。あの小さな、赤いフォルクスワーゲンの中で神と交わった時、主をとても近く感じました。

さて、とある角を曲がった時(今でもその場所を覚えています)、1年以内に誰か私の身近な人が死ぬ、という強い予感を私は持ちました。そのことが起きても、私は驚き惑うことなく、神を信じ頼り続けるようにと神がおっしゃっているように、私には思えました。

その突然の予感を説明できるような死とか何かを、全く予想してはいなかったので驚きました。いったい誰が死ぬのか、またどのようにその最後が来るのかなどと考えると、心臓がどきどきしました。それでも、家についた時そのことを誰にも話しませんでした。

1ヵ月たちましたが、どんな悲劇も、死別もありませんでした。さらに2、3ヶ月がたちまちのうちに過ぎましたが、私の家族の誰も死にませんでした。ついに、嫌な予感がしたあの日から1年過ぎましたが、何事もありませんでした。父が亡くなるまで、10年の月日が流れました。しかしそれは、フォルクスワーゲンの中の予感とは何の関係もなかったと思います。

それ以来、多くの方々をカウンセリングし、またその他の職業上の経験を通して、私のようなあやまった思い込みを持つ人が決して少なくないことを知りました。同じような経験が、特にそのような考えに影響されやすい直感的な方々にはよくあるようです。

例えば、30歳になるお母さんが、不安とうつ症状がとれないという訴えを持って私の所に来られました。お話を聞いていると、16歳の時に通っていた教会の礼拝で経験したエピソードを話されました。説教の終わる頃、彼女は、神からの驚くようなメッセージを「聞いた」というのです。「ジーニー、他の人がわたしのことを知ることができるために、あなたは死ぬ」という声です。

彼女は、震え上がりました。自分が絞首刑台の上に立たされ、死刑執行の縄が自分の頭の上にぶら下がっているかのように感じました。彼女はパニックに陥り、席から飛び上がり、ドアをいくつも通り抜けて教会を後にしました。すすり泣きながら走りました。人に話したら罪を犯すような気がして、誰にも言えませんでした。何年もの間、神の判決の執行がいつなされるのかと、息をひそめるように生活していました。しかし、それから10何年もたつのに、彼女は今も健康そのもののようです。

このような例をはじめ様々な実例から、私は、自分の受けた予感を勝手に解釈するのは賢いことではないと考えるに至りました。

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Q.239

自分の感情に頼れないならば、どうやって神さまの正しい御心を知ることができますか。


A.

主の御心を知るには、少なくとも5つの方法があります。

1番目に、パウロはエペソ人の手紙の中で言います。   「(私は)あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あたなたがたに与えてくださいますように」(エペソ1章16、17節)

もし祈りを通して霊的な知恵と洞察に至ることが出来ないならば、神はこのようにはおっしゃらなかったはずです。ですから、神さまの御心をさぐるには、膝を折って祈ることが第一です。

神はそこであなたに会われます。イエス・キリストの約束を覚えてください。  「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7章7節)

2番目に、目の前にある問題に関する原則を聖書の中に捜すべきです。道徳的にまちがったことや聖書に反することを、神はあなたに要求されません。あなたがしようと考えていることがみことばに示された基準に反しているなら、それは捨てるのが賢明です。

3番目に、霊的に成熟し信仰の厚い人々からのアドバイスを受けることです。信仰深いカウンセラーや牧師は、多くの若い方々を混乱させる、よくありがちな間違いを避ける知恵を与えてくれるでしょう。

4番目に、いわゆる「摂理的な状況」と言われるものに注意を払うことです。戸が開いたり閉じたりするのは、神の語りかけであることが多いのです。あることを求めているのに八方塞がりだ、という状況になるなら、神はあなたに他のご計画をお持ちなのかも知れないと考えたほうがいいでしょう。妨害が一つあったら即座にあきらめなさいと言っているわけではなく、あなたの人生に起きる出来事の中に神の御心を「読み取る」ように努めてくださいという意味です。

最後に、何も衝動的に行わないことです。神がお語りになる機会を認めるのです。それまでは、時を待ち最初の4つの方法に集中してください。

神の具体的な御心を見極めるのに役立つ上の5つの方法に加えて、私たちすべてに対する、神の一般的な御心を私は申し上げられます。聖書は信者すべてに同じ課題を与えておられ、それを「大宣教命令」と呼びます。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)この責任は、私たちすべてに対するものです。信徒としての私たちの使命は、できるかぎり多くの人々に「イエス・キリストは私たちすべての罪のために死なれ、その御名を信じる者すべてに、永遠の命を提供しておられる」と伝えることです。

ですから、あなたが何であろうと、歯医者であろうと、トラックの運転手であろうと、芸術家であろうと、車のディーラーであろうと、主婦であろうと、その立場を用いて救い主のあかしをすることを期待されているのです。

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Q.240

クリスチャンが痛みや苦しみについて語るとき、ほぼ例外なくローマ人への手紙8章28節にある「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」という聖句を引用します。しかし、どうしてこの聖句が真実だと言えましょうか。ドブソン博士ご自身が認めるとおり、信者も未信者と同じく苦難を体験します。それなら、どうしてすべての困難を「益としてくださる」と言い得るのでしょうか。


A.

まず第一に、パウロはすべてのことが良いことだ、と言ってはいないことに注目してください。死や、病や、苦しみが実は「良いもの」の仮の姿であるとは言っていません。パウロが言うのは「神はこれらの苦難をも良きに働かせ、益をもたらす」と約束していますよ、ということです。私の身に起こることが、父なる神の完璧なご意思のもとに起こるかぎり、私は何ものをも恐れる必要がありません。たとえ命がかかっていてもです。もしそれが自分の願いや時代の風潮と正反対のようであっても、神は必ず最善をなしてくださるという信頼、これこそ私たちの信仰のより所です。

角度を変えてご質問にお答えしてみましょう。物理学の法則では、宇宙のエネルギーは、決して失われないと言います。ある状態から、別の状態に変換されるだけです。人間の経験についても同じ事が言えます。全く無駄に終わる体験というものは何一つありません。神は、計画を実行するためにあらゆる出来事をお用いになります。たとえば、宣教師のジム・エリオットとその同労者たちは、エクアドルのワオラニ・インディアンに槍で刺し殺されました。それは、極度の悲劇、

全くの人命の無駄としか思えません。しかしながら、神の御手の中では目的があったのです。後年、彼らを殺害したインディアンたちは一人残らずイエス・キリストを信じ、受け入れたのです。彼らを通して福音はこの部族にしっかり根付きました。かくして、エリオットと同僚の宣教師たちは、その命を奪ったまさに張本人たちと共に、永遠の中で喜びを分かち合う結果となったのです。これは「益」です。ですから、ローマ書8章28節は、一時のこの世的な観点ではなく、永遠の観点から読まれるべきです。

このような例は枚挙にいとまがありません。イエスの十字架の後の最初の殉教者ステパノを覚えておられるでしょう。この信仰深い信者の残酷な死によって、神のためにいったい何が成し遂げられたというのでしょう。実は、これが初代の信者たちの腰を上げさせ、迫害をのがれるとともに、イエスの死と復活の福音を当時の世界の果てまでも告げ知らせる発端となったのです。かくして教会は、こうでもなければ決して福音が届かなかったであろう無数の村や町や都市で、着々と築かれていったのです。

もっと身近な例を挙げましょう。数か月前、グレッグ・クレブスという方からフォーカス・オン・ザ・ファミリーに電話が入りました。彼は、私に伝えてくださいと言って、応対した職員に次のような話をしたのです。

クレブス夫妻には、21歳になるクリスという息子がいます。クリスがまだ胎内にあるとき、中絶を勧められました。しかし、この夫妻は命を与えることを選びました。生まれてきた子は脳性麻痺でした。重度の知的障害も伴っていました。すべての生命は尊いと信じる2人は、この決断を一度として後悔したことはありません。この息子のいのちを心から感謝しているのです。クリスは、彼らの人生にどれほど温かく、良い影響をもたらしてくれとことか。「神はクリスをあるがままに用いてくださいました」とクレブス氏は言います。

クリスがわずか7歳の時のことでした。「当時、妻は病院に勤めていました。ある日、彼女を迎えに、クリスも連れて病院まで行ったのです。妻は少し残業していたため、クリスと私は家族用の部屋で待っていました。そこにはもう一人の男がいました。彼は身だしなみがだらしなく、正直な所、すこし臭いました。妻があとどのくらいかかるかを聞きに、ナースステーションに行って帰ってくると、クリスがその男の横に座っているのです。そして、その男はむせび泣いているではありませんか。息子が何か気に障ることでもしたのかと、私は謝り始めたのです。『息子が何かしたのなら、本当に申し訳ありませんでした』と。

『何かしたかですって。とんでもない。この20年間で、私を抱きしめてくれたのは、あなたの息子さんだけなんです。』

その瞬間、息子が私よりずっとキリストのような愛を持っていることに気づいたのです」

その肉体の限界や障害にもかかわらず、クリス君を愛し、尊び、育んできたご両親に感謝します。神の評価の中では、「ゴミ」のような人は誰もいないと、私は心から信じています。神は、私たち一人一人を同じように愛しておられます。そして、ご自身の目的を成し遂げるために、たとえ極度の知能障害児であろうとも、神はお用いになるのです。主は、あなたの苦しみさえお用いになります。ただ、その意味をすぐに悟ることは、必ずしもできませんけれども。

繰り返しますが、主の完全なご意思に全てを委ねたとき、神は、ご自分を愛する人々、すなわち、ご自分の計画のために召された人々のために、すべてのことを、そうです、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。

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Q.241

辛酸をなめるような体験の渦中でも、神は私たちを見放しているのではないと聞きましたが、その意味が良く分かりません。神は私たちに辛いトンネルを通過させる、とはドブソン博士が既に述べられたことですが、では困難な日に私たちは一体何を神から期待したらよいのでしょう。


A.

危機にあるクリスチャンに何が起こるのかを、的確に表現する言葉は見つかりません。ただひとこと言えるのは、混沌の最中にこそ確かに主はおられ、すべてが御手の中にあるという心の平安が与えられることが多いということです。数え切れないほどのクリスチャンが、もうダメだというときにこそ主の臨在をはっきりと感じたと証しています。また、ここぞという時にご自分の愛をまざまざと見せてくださることもあります。

1987年、私用セスナ機の墜落で、私の親友4人を一度に失うという悲劇がありました。私たちは、その前の晩は一緒におり、私は彼らの無事の帰宅を祈ったのでした。翌朝早く、4人はダラスに向けて飛び立ちましたが、目的地に着陸しませんでした。人里離れた渓谷で墜落機が発見され、生存者ゼロという電話を受けた瞬間は忘れられません。私は、実の兄弟とも慕っていた4人を失い、ただ茫然自失の体でした。

遺族のうち2家族に、私は葬儀での弔辞を頼まれました。働き盛りで、また敬愛されていたこの男たちがなぜ突然に召されなければならなかったのか。大声でなぜだと叫びたい気持ちでした。神はいったいどこにいたのか。なぜ神はこんなことを許されたのか。なぜ、こんなにも信仰深い立派な男たちを遺族から奪い去り、悲しみと苦しみにうちひしがれるままにしておかれるのか。これらの悶々たる問いに答はありませんでした。なんとか答えを出そうと試みることさえしませんでした。

私が口にしたことは、ただ神は4人の人生のかじを切り損なったのではないということ、そしてまったく不条理に見えることの中でも、神は私たちに信仰を求めておられるということでした。主の臨在はその時、とても近くに感じられたのです。

礼拝堂を出て、別れぎわに家族の者や友人たちと立ち話をしていたときです。突然誰かが空をさして、「ほら見て!」と叫びました。教会の塔の真上に、微笑むような形の小さな虹がかかっていたのです。その日、雨の気配は全くなく、小さい雲がふんわりといくつか見えるだけでした。にもかかわらず、この美しい虹は教会の上にだけ現れたのです。後で、この虹は葬儀の間中かかっていたと知らされました。それは主が、悲しみにくれる未亡人たちや子どもたちに、こう言っているようでした。

「心安らかでいなさい。あなた方の夫たち、また父親たちは、わたしと共にいるのだから。すべて間違いはありません。あなたがたが理解に苦しむのは分かります。しかし、わたしを信じなさい。わたしに任せなさい。この虹が覚えるべきしるしです」

そこに1人の気丈な人がいて、その瞬間をカメラにおさめました。出来上がった写真の中に、私たちは葬儀の当日には、誰も気づかなかったものを見いだしたのです。見てください。虹の真ん中近くに、セスナ機が飛んでいるのを。

皮肉屋や信仰のない方には、虹も飛行機もただの偶然で、隠された霊的な意味は何もないと言うでしょう。彼らがどんな意見を言おうとかまいません。しかし、傷だらけの4家族と私に、主が自然現象を用いて主のみが与えられる心の平安を送ってくださったのです。そして、確かに主は、4人の勇敢な未亡人とその子どもたちとともにおられるという約束を果たしてくださいました。

他にもお分かちしたい実話は山ほどあります。たとえば、アンドリューと名づけられたハリケーンが南フロリダを襲った夜のこと、サンドラ・ランドという夫人とその家族は避難所で夜を明かしました。翌朝家に戻ると、家屋は、内壁がいくらか残っている以外すべて破壊されていました。茫然自失のサンドラは、残骸の谷間を歩き回りました。すると台所だったところで、セロテープで彼女が以前張っておいたメモが見つかりました。いまだ同じ所に、こうあったのです。  

「私は、どんな境遇にあっても、満ち足りることを学びました」

わずかに残った手洗いの壁にも、やはり彼女が以前書き留めた聖句がありました。
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い」

彼女はこれを主からのメッセージとして受けとめました。

悲劇の時に与えられる神さまの臨在と確信の例をあげたら、何冊もの本になるでしょう。

聖書には、このような約束があります。  「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」(詩篇73篇23-26節)

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Q.242

私は、神さまがとても近くにおられて、私の人生を喜んでおられると感じる時があるかと思えば、神さまが遥か遠くに離れていらっしゃると感じる時があります。神さまの励ましとご臨在がコンスタントに感じられない時に、どうしたら信仰生活をしっかりしたものにすることができるのでしょうか。


A.

神さまは、いたりいなかったりされるお方ではありません。不安定なのは、神さまに対するあなたの感じ方です。あなたの信仰生活が感情の浮き沈みに頼っているなら、信者としての確信は荒海にもまれる船のように不安定なものになります。毎日の感情ほど頼りにならないものはありません。ですから、私たちの信仰は、自分の意思による堅い決心と祈りの生活、信者の交わりと聖書の熱心な学びに根を下ろしていなければならないのです。

人間の世界への神さまの介入について理解するのに、もうひとつの要素がとても重要になります。つまり、自然のリズムです。人間の感情と状況は、否定的なものから肯定的なものへ、そしてまた否定的なものへと、規則的に変化します。何かがおかしくならないで2週間以上経過することなんて、めったにありません。屋根が雨漏りするか、車が故障するか、子どもが水疱瘡になるか、ビジネスの雲行きが怪しくなるかするのです。マーク・トウェインは、「人生なんて、いまいましいことの連続だ」と言いました。この不完全な世の中とは、そういうものです。

感情のジェットコースターのような昇り下りを経験する人に、何かの慰めがあるとしたら、それは、イエス様もこの揺れ動きを味わわれたことが、聖書から明らかだということです。

イエスさまの公生涯は、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたことに始まりました。それは、地上での30年の中で、もっとも胸のすくような日だったでしょう。マタイ3章16、17節にはこうあります。

「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

若いメシヤにとって、これはなんとすばらしい経験だったでしょう。父からこのように承認され祝福を受ける喜びは、言い表せないほどのものだったでしょう。ところが、次の節に注意してください。

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」(4章1節)

イエスが、生涯でも感情的に一番昂揚する経験から最も恐ろしい苦しみ、つまり40日間の悪魔との戦いにそのまま引き入れられたのは、興味深いことではありませんか。また、イエス自らが荒野にさまよって行ったのではないことにもご注目下さい。自分の計画で行ったのでもないのです。悪魔に試みられるために、御霊に導かれたのです!

イエスの生涯の大変動期は、今始まったばかりでした。ある意味で、そのミニストリーの全体が、この揺れ動きに特徴づけられています。荒野での苦しい時を過ごした後、「預言者が現れた」とのうわさが広がり、群集は彼にへつらい始めました。病気の者や障害者が彼のそばに近づこうとする時の、ヒステリックなシーンをあなたは想像できますか。

それから、祭司長やパリサイ人たちがイエスを殺す企てを始めました。彼らの憎しみを買い、ついには言わば「指名手配」をされたのです。その行くところどこでも、彼らはイエスを辱め、脅かそうとしました。一般の人々の賞賛と宗教指導者たちの憎しみとが、交錯しました。
地上でのイエスの最後の日々の出来事に移りましょう。エルサレムに近づかれた時、群集が来て挨拶し、叫びました。 

「ホサナ。祝福あれ。主の名によって来られる方に。イスラエルの王に」(ヨハネ12章13節)
しかし、その数日後には、彼は迫害され裁判を受けるというひどい苦しみを通ります。かつては彼を礼拝した同じ人々が、今度は十字架刑を要求したのです。

それからイエスは、カルバリ山の上で2人の強盗の間で十字架につけられました。人類の歴史の中で最暗黒の日は、その3日後、人類に与えられた一番素晴らしいニュースが告げられる日に続くのです。やがて、120人の弟子たちはペンテコステに聖霊のバプテスマを受け、教会が誕生しました。その後には、信じがたいほどの迫害を聖徒たちが受け、多くの殉教者が出ました。良いニュースがあったと思うと、翌日には悪いニュースがありました。ヤコブは殺されましたが、ペテロは救出されました。初代のクリスチャンたちも、教会を建設するのに嬉しい時も悲しい時も通らされました。

イエスのミニストリーの栄枯盛衰を通して私が例証したかったことは、この不完全な世に安定や予測可能なことはないということです。あなたと私にとっても、同じです。予測できないこと、心を乱されること、いらいらさせられることが起こるのを覚悟せねばならないのです。ある日、雲の上を歩くような思いをしたら、次の日は地べたを這うような日になります。そのように混乱した世で、どこに安定が見出せるのでしょう。それは、決して約束を違わず、すべてを覆う愛を持ち、変わらない永遠の主の上に信仰の錨を下ろすことによってのみ見いだすことです。その時、周りの出来事が、喜びの絶頂から悲劇に変わっても、私たちの喜びと望みは日の出のように確かになれます。それが聖書の教えであり、それを選ぶ者には神さまの平和が約束されているのです。

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「ドクタードブソンの一問一答」の翻訳については、ファミリー・フォーラム・ジャパンがティンデール社から許可を得ています。

Excerpted from COMPLETE MARRIAGE AND FAMILY HOME REFERENCE GUIDE ・ 2000
by James Dobson Inc. Used and translated with permission of Tyndale House Publishers.
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