そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。若い信者であった私は、当時教会に頼まれることは何でも引き受ける義務があると感じました。教会学校の校長、役員会、教会学校成人クラスの教師などを務め、その他何か特別の必要があるときは何でも引き受けていました。妻も、子ども聖歌隊の指導、婦人会の会長など教会活動に深くかかわっていました。私は博士過程の最終段階ににあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家にはパパと遊びたい盛りの女の子がいるのに、あるとき17日間も夜の会合が続いたことを思い出します。
それ自体重要な仕事であっても、それを引き受けるのには判断力と常識とを働かせるようにと主は私に望んでおられることが少しづつ分かってきました。一人の男性または女性ができることには当然ながら限界があります。キリスト者としての義務、仕事、リクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などを健康にバランスよく計画する必要があることが分かりました。
この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。
第一はマタイの福音書14章13-14節にあります。
「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた」
この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみその必要を満たされました。このことから私の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。
別の時には、何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコ4章36節によれば 「弟子たちは、群衆をあとに残し、舟にのっておられるままで、イエスをお連れした」
疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、奇形、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したとき、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。
似たような出来事がマタイ14章23節にも記されています。
「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた」
与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても一人になって祈り、日常の雑事から逃れるべき時があります。イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を多く作りすぎたようなものです。どの口からも十分な水は出ません。
もう一つの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけではなく実のなる枝さえいくらか刈り取ることをご存じですか? 収穫量をいくらか犠牲にしても質の良いぶどうを得るためです。同じように、私たちも休みなく動き回ることをやめて働きの全体的な質を良くするようにすべきです。
それはそれとして、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。「ほとんどの奉仕がほんの数人の肩に負わされ、大部分の人は何もしようとしない」と牧師たちは嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないように、常識を働かせましょう。
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