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親は大人ー大人は大人

コール・テモテ

私が若いとき、私は「なるべく早く自立した大人になりたい」と、願いました。その目的を果たすために、大学時代から経済的に自立できるように、そして、責任を負うことができるように、大人らしく振舞うことができるように、努力したわけです。しかし、そういう努力があったにもかかわらず、本当に自分が大人としての自覚を持てたのは、妻との間に、最初の子どもが生まれたときのことです。この、本当に小さな、自分では何もできない、無力な、新しく生まれてきたばかりの人間は、私たち親に一日24時間、完全に依存している、ということに気がついたときです。これは私が中途半端な形で果たしていくことができるような責任ではない、そして私は多くの夜、泣く赤ちゃんを抱きながら、あるいは、延々と続くおむつを替えながら、「自分はもう自由ではない、自分はもうわがままではいられない、自分はもう自分勝手なことができない、そして今から一世紀の約4分の1は、子育てが占める」ということに目覚めたのです。このようなことに目覚めることは、実は重要なことでした。というのは、赤ちゃんをつくること、出産、子育てをする、ということは、私たち人間にとって、あるいは人類にとって、もっとも大切な使命の一つであり、私自身はその使命に忠実に取り組まなくてはならない、ということであったからです。世の初めに神様は言いました。創世記の1章28節です。「生めよ。増えよ。地を満たせ。」

神様はさらに箴言の22章6節の中にこういうふうに聖書に書いています。
「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」

さらに神様はアブラハムの子育てについて、次のような言葉を、創世記の18章19節で語っています。
「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

アブラハムも自分の子どもに対して、子育ての使命を神様から直接与えられた、ということなんです。
戦争直後の日本において、日本の女性の平均出産率というのは、4.9でした。現在はそれは1.25に落ちています。

日本の女性の4人に1人は、1度以上の人工妊娠中絶を経験している、と言われています。さらに多くの若い女性たちは結婚や子育てを拒否し、自分たちの家庭を持とうとしない傾向が見られます。それはなぜでしょうか。もしかしたら多くの人たちは「子育てができない」と思っているからかもしれません。あるいは、自分たちの育った家庭において、よい模範を示されて来なかった。ましてや聖書的な観点から子育てをすることに対する理解はなかった。ですから多くの若い親たちは、子育てのプレッシャーに折れてしまい、失望したり、落ち込んだり、ひどいときには暴力を振るうようなところまで追い詰められるのです。

読者のみなさんの中にはいろんな立場の方々がいらっしゃることを、私は知っています。しかしそのすべての方々、立場にかかわらず、まず言っておかなければならないことは、赤ちゃんというのは、性的関係から生まれてくるものだ、ということです。ですから、まず第一に主張したいことは、自分には親になる覚悟がまだないのであるならば、性的関係を持つことは、避けなければならない、ということです。これほどにも当たり前のことを述べることにびっくりするかもしれませんが、大切なことです。私たちが生きている時代において、メディアやエンターテイメントの産業において、あるいは教育者たちでさえも、私たちに、セックス、性的触れ合いというのはエンターテイメントの一つ、あるいは人間同士のコミュニケーションの手段の一つとしてしか捉えられ、その生命との切り離せない関係が見失われているのです。

要するに、誰かと一緒にテニスをしたり、カラオケをしに行ったり、そのほか人間同士ですることと同じようなレベルでしか考えない、そういう思想の流れがあるわけです。そして性的快楽と、出産・子どもをつくることとを、まったく切り離して考えてしまう時代です。しかし、それは神様の計画ではありません。神様の計画においては、性というのは、夫と妻をひとつにする、強烈な接着剤であり、夫と妻がこの強烈な接着剤によって一つになったときに子どもができて、そして子どもを産み、育てる。そのことが神様の計画であるわけですね。先ほど読みました 「生めよ。増えよ。地を満たせ。」 というのもその計画の一つの現れの言葉です。

だとすると、性的関係というのは、どういうときに適切なのでしょうか。それは男の人と女の人がきちんと結婚していて、親になる覚悟ができているときにふさわしい、ということなんですね。というのは、やはり子どもには二人の親がそろっていることが望ましい。お父さんとお母さんがいて、その二人ともが子どもを愛し、その子どもを大人になるまで、犠牲を払って見送る覚悟をしていることが必要なのです。

さて、二番目のポイントは、私たちはすべて、子どもを持つということの意味をはっきり自覚する必要があるということです。多くの方々はこのことについて、実は混乱しているんですね。子どもはおもちゃではありませんし、私たち親の幸せのため、私たちの満たしのために存在するわけでもありません。更に、子どもは親の期待や夢を満たすために与えられるものでもないんです。子どもは壊れた結婚関係や難しい家庭状況から逃げ出す手段でもありません。そして、結婚関係が崩壊してしまったとき、子どもをつくれば結婚生活がよくなる、というのも誤解です。そうではなく、聖書の中には子どもについて、詩篇の127編3節に 「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」 と書いてあります。子どもは神様からの授かりもの。神様の祝福のしるしでもあるわけです。子どもたちはしばらくの間私たちにゆだねられていて、私たちはその大切な子どもたちを上手に管理し、自立した立派な大人になり、、神様にも仕え、他の人々にも仕えることができるように、その子どもたちを育てる使命を私たちはいただいているのです。

さて、この話を聞いている方々の中には、もうすでに子どもができてしまったけれども、実は子どもが欲しくなかった、と思っている方もいるかもしれません。みなさんがそういうふうに思ったり、感じたりしているからと言って、みなさんの親としての役割や責任、あるいはその子どもの存在価値は少しも変わらないんですね。みなさんは親として「この子どもは欲しくなかった」と思ったとしても、その子どもの大切さ、あるいはみなさんの親としての責任は変わらない、ということです。場合によっては、もともと性的関係を持つのはよくなかったかもしれません、それは過ちだったかもしれません。しかし、その結果として赤ちゃんを与えたのは神様です。そして神様は、その赤ちゃんを与えるにあたって、失敗を犯されているわけではありません。もしかしたらみなさんは、赤ちゃんは欲しかったけれど、今自分に与えられている赤ちゃんはどうしても好きになれない、その子どもを愛することはできない、と感じておられるかもしれません。しかし改めて言いますけれどもこの子どもをあなたに与えたのは、やはり神様だったんですね。そして神様はその子どもを与えるにあたって、何の失敗も犯してはいないのです。しかも、愛情というものは、感情だけではなく、それは私たちの選択、私たちの意思をも含んででいるものです。

私の5人の子どものうちの1人が思春期の頃、数年間ほとんど私に話しかけてくれない、話しかけるときはいつもそれは無礼な態度で話しかけることしかしない、という時期がありました。しかし私は親として、そういう態度にもかかわらず、その子どもを愛する選択をしなければならなかったんです。というのは、私たちの感情というのは、激しい上がり下がりがあります。必ずしも私たちは自分の感情をコントロールすることはできません。しかし、私たちは自分の意思をコントロールすることはできます。そして私たちは神様から与えられた子どもを、受け入れ、愛する決断をしなければならないんです。

さて、みなさんが親になるということは、あまりにも重要なことなので、親は大人として自覚を持たなければならない、大人らしく振舞わなければならない、大人らしく物事を信じ、判断しなければならなりません。大人と子どもの違いは、どういうことでしょうか。身体の大きさだけではありません。大人は、物事の長期的な意味を見る能力があるはずです。目先のことだけで振り回されるわけではないんです。子どもは逆に目先のことだけで物事を判断してしまう、傾向があります。また大人というのは自制、自己訓練というものも働かせるわけです。子どもにはそういうものがまだ上達していません。大人として私は、自分がしたくてもしてはならないことに関して、自制をしなくてはなりません。あるいは他のものに関しては、したくないけれども自分がそれをするように、自分を制御しなければならないときもあるわけです。親として自分の感情をコントロールしなければ怒りや言葉や態度が子どもたちに大きな傷を負わせる結果になります。自分の子どものために、自分の望みや自分の欲しいものを犠牲にしなくてはならないわけです。ですから、大人として私は自分自身の心の中の課題をよく理解し、そしてそれを上手に処理していかなくてはなりません。それを自分の子どもたちにぶつけてしまうことは、してはならないこと。親は大人らしく生きなければならないんです。そうするためには私は、自分が成長できるように、大人になれるように、祈らなければなりません。場合によっては自分をサポートしてくれる何かのグループの中に入って、そこから助けと協力と励ましを受ける必要があるかもしれません。あるいは、身近にいる親しいお友達の助けを得る必要もあるかもしれません。もっと深い問題があるならば、そのためにカウンセリングを必要とするのかもしれません。

親たちは、親としての自覚を持たなければなりません。「私はまだ親になりたくないんです」という方でさえも、「いや、自分は親なんだ。そしてその親である立場と責任を本当に自分の心に焼きつけて、それに取り組んでいく」という心構えを築いていかなければならないんです。親である、ということは、自分が自分の子どもの上に立つ権威であること、子どもたちは自分に従わなければならない、ということを自覚することですよね。「テレビを消しなさい」と言ったときには、私は親として、その子どもたちに消すことを強制しなくてはいけないんです。要するに、私が、子どもたちに対する最終的な権威にならなければならない、ということです。なぜかというと、子どもたちは、自分にとって何が最善なのかよくわからないからなんです。

あるとき私たち夫婦は、よその家族の10歳の子どもを短い間預かったことがありました。その親は、その子どもに食べたいものだけを食べさせていたんですね。その子どもは本当に数少ない種類のピザだけが好きだったわけです。ですから、果物も、野菜も、肉も、栄養があるものはほとんど食べないで、毎日毎日その好きなピザだけ、そして自分が気に入っていたアイスクリームだけを食べていたわけです。子どもは、自分にとって何が最善なのか、ということを理解する判断力はないので、長期的な目で物事を見ません。ですから私は親として、自分の子どもにとって何が最善なのか、ということに関するエキスパートになり、そして、彼らにとって最善のものを強制する必要があるんですね。もしも私がそのことをしないならば、私たちは小さな怪獣を作ってしまう、あるいは精神的にボロボロの小さな人間を作ってしまう。あるいは、人生のために、まったく備えの整っていない大人を養成してしまう可能性があるわけです。

さて、これまで私たちが話してきたポイントをもう一度復習してみましょう。

まず最初に、性的関係を持つ前に、子どもをつくる前に、きちんと結婚し、そして親になる覚悟を身に着けていなければならない、ということ。

二番目に、子どもは神様からの特別な授かりもの、祝福のしるしである、ということ。そして私たちが親として子育てをすることは重要な役割。人間として最も大切な使命や責任の一つであるということ。

三番目に、親は自分の子どもを受け入れ、自分の子どもを愛し、主からの祝福として受け止める必要があるということ。

四番目に、親は大人らしく振舞う必要があるということ。
最後に、親は親らしく振舞う必要があるということです。

これらを頭の中におきながら、私たちは、自分たちはどうなんだろうか?ということについて、考えましょう。どういう面において、成長する必要があるのか、変化する必要があるのか。その方向に向かっていくためには、具体的にどういうステップをとっていかなければならないのだろうか。そのことをこれから、自分の中で考え、また同じ学びに取り組んでいる方々と話し合いをするようにしましょう。


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