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ファミリー 
ドブソン博士
  ドブソン博士の一問一答
Q.226

信仰深い親の子でも、時にはひどい反抗をし、教えられた信仰に戻ることがないこともあるという、先生のお話がありました。神を愛し、熱心に教会生活をしていた素晴らしい家族に同じようなことが起きたケースを、私も知っています。でも、これは聖書の言っていることに矛盾しているようにみえます。箴言22章6節には、「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」とありますが、これをどのように解釈されますか。一読して、「賢明で、献身的なクリスチャンの子は、信仰を失うことはない」ということを意味しているように思えます。信仰から迷い出た子らもすべて、遅かれ早かれ神さまの囲いに戻って来ると、約束しているのではないでしょうか。


A.

ソロモン王のことばが、そのように明確に解釈できたらいいのにと思います。一般的には、この箇所が神からの保証と理解されていることは私も知っています。しかし、前後の文脈では、そうは受け取れません。

精神科医師であるジョン・ホワイト氏は「親たちの痛み」という優れた本の中で、箴言は元来、神からの絶対的な約束として書かれたものではないと言います。むしろ、そうなる確率が高いと言っているだけだというのです。

箴言の著者ソロモンは、当時の世界で最大の賢人でした。彼の目的は、人間の性質と神の数多くの働きについて、神から霊感された彼の意見を伝えることでした。ある種の状況が組合わさられると、ある特定の結果が生まれることが期待できるということです。

残念なことに、箴言22章6節をはじめとするソロモンのいくつかの見解は、前後の文脈から抜き取られ、それだけで神からの独立した約束であるかのように理解されています。それが正しいとするならば、他の多くの箴言も必ずしも正しくないことを説明しなければならなくなります。例えば、

「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます」(箴言10章4節)
(勤勉なのに貧乏だというクリスチャンに会ったことがありますか? 私はあります)

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」(箴言10章22節)

「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」(箴言10章27節)
(若く美しい子どもたちが、キリストのために素晴らしいあかしをしながら亡くなるのを私は見ました)

「正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる」(箴言12章21節)

「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する」(箴言15章22節)

「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」(箴言16章31節)

「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16章33節)

「英知を欠く君主は、多くの者を強奪する。不正な利得を憎むものは、長生きをする」(箴言28章16節)

上のような宣言の例外を、私たちはみな思い付きます。繰り返しますが、箴言は神さまの保証付きの絶対的な真理というよりも、「こうなる可能性が高い」と言っているようにみえます。聖書のこういう解釈は、信徒の中では何かと論議を呼びますが、聖書学者たちの間ではそうでもありません。例えば、ダラス神学校の教授陣による『聖書注解書/旧約編』は、私の提案した解釈を採用しています。この注解書は、神のことばを字義通り解釈することで有名なのですが、そこで神学者たちは箴言22章6節について次のように書いています。

「しかしながら、ある親たちはこの勧めに従うように努めたが、ここに書かれたような結果を見なかった。その子らは親の与えた敬虔な訓練からさ迷い出た。この事実は、『箴言』の性格を例証している。

箴言は、一般的な真理が具体的な状況の中でどう働くかを示す、文学的な技法である。箴言の多くは、絶対的な保証ではない。なぜなら、それらの真理はいかんともしがたい状況に条件付けられざるを得ないからである。例えば、箴言22章3、4、9、11、16、29節は、必ず成就する約束を意味してはいない。それらは、一般的にまた普通は真理であるが、時に例外のあることは認められる。それは、知恵の道を捨て、自分の道、愚かな道を行くことを選ぶ人の、わがままや不従順のためかもしれない。そのゆえに、その個人は責任を問われる。しかし、クリスチャンホームで育てられる子の大部分、神の基準を教えられ、また敬虔に生きている親の影響を受けて育つ子らの大部分は、親の訓練に従うという一般的な事実もある」

箴言22章6節は子どもたちの救いを保証していると信じる人々は、要するに子どもが自分で行く先を変えられないほどに、完全にプログラムできるものと思い込んでいるのです。即ち、もし「その行くべき道にふさわしく教育」をしたら、結果は保証されているのだと。しかし、ちょっと考えてみてください。

創造主なる神は、アダムとエバを、無限の知恵と愛をもってとりあつかわれなかったでしょうか。「父親」としての神に誤りはありませんでした。それに彼らは、私たちの直面する邪魔物が何もない、理想的な環境の中に守られていました。親戚の問題も金銭問題もなく、イライラさせられる雇い主もおらず、テレビもポルノもアルコールも麻薬もなく、友達からのプレッシャーも、何の悲しみもありませんでした。言い訳できるようなことは何もなかったのです。

それなのに、2人は神からの明らかな警告を無視し、罪に陥りました。罪の誘惑を避けられる所がどこかにあるとすれば、それこそあのエデンの園だったはずです。ところが、2人は誘惑に負けました。

神さまは愛のゆえに、アダムとエバに善悪の選択権を与えました。そして、彼らはそれを濫用したのです。神さまは、あなたのお子さんたちに同じ自由をお与えにならないでしょうか。アダムやエバと同じく、彼らも究極的には、自分で選択をするのです。その決断の時は、親にとって息を飲む瞬間です。それまでに教えて来たすべてが、試されるように見えます。しかし、それは私たちすべてにとって避けようのない時なのです。

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Q.227

箴言の解釈について、先生は強い確信がおありになりますね。その過りには、どんな悪影響があるのでしょうか。


A.

献身的で真面目なクリスチャンでありながら、神と自分の家族に反抗をしてしまった成人の子を持つ親たちのことが、とくに心にかかります。ご両親は子どもたちを育てるために最善を尽くしたのですが、それでも子どもを失ってしまったのです。聖書の理解はさておいても、それによってとてつもない罪意識が生じます。

「親としての任務を正しく果せば、神は子どもを霊的に祝福すると神は約束した、いや絶対的に保証した」と彼らは信じています。それでは、子どもたちが引き続き反抗し罪を犯し続けるのを見て、どんな結論が出てくるでしょう。それは、火を見るよりも明らかです。自分たちの育児がまちがったに違いないという結論です。「自分の分を果さなかったために、子どもが呪われてしまった」、「親としての失敗によって、愛する子らを地獄に送ってしまった」ということになります。これは、感じやすい信者にとって余りにも耐えられないことなので、実際に精神異常をきたすことさえあり得ます。

子どもたちの罪の責任をすべて、良心の鋭敏な親が負わせようと神が意図したとは、私には思えません。聖書全体を見た時に、そのような極端な立場を支持する根拠は見当たりません。
アベルを殺したカインの罪は、両親のせいではありませんでした。ヨセフは敬虔な息子で兄たちはならず者でしたが、父と母(ヤコブ、レア、ラケル)は、その兄弟たちの違いについて、責任を問われませんでした。神の人サムエルの子らは反抗的でしたが、サムエル自身はその罪を問われてはいません。

新約聖書において、放蕩息子の父親は冒険好きな息子の育て方をまちがったといって責められていません。息子は、自分の責任で無鉄砲な決断をし、父親はあえてそれを止めなかったのです。この良き老人は、どのような間違いをも悔い改めてはいませんし、その必要もありませんでした。

育児に励むべき時にその義務を怠ったり、子どもに無関心な親たちにも責任はないというつもりはありません。息子たちをしつけ、訓練しなかったために神の怒りを買った父親の例が、聖書に少なくとも一つあります。第一サムエル2章22—36節で、2人の息子が神殿を汚すのを、祭司のエリが許したという箇所です。3人とも神さまから死の宣告を受けました。明らかに、神さまは親としての責任を重く考えておられ、私たちもその責任は重大だと受け取るべきです。しかしながら、自分にどうしようもない状況について、私たち親が罪意識を感じ自己卑下することは、神の御心ではありません。  

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Q.229

私たちは子どもが生まれる前から、一人一人のために祈っていました。生まれた後も、毎日のように名前をあげて主の前にとりなしてきました。ところが3人のうち真ん中の娘が信仰を拒み、本人も分かっていながら誤った道に歩んでいます。現在、2度も離婚歴のある男性と同棲していて、結婚する意思は全くないようです。私たちの知る限り2度中絶し、ことば遣いなど聞くに耐えません。
妻と私は精根尽きるまで祈りましたが、娘は教会に戻る気がないようです。私たちの祈りに応えてくださらない神に対して、時々強い怒りを抑えられません。涙がかれるまで泣きました。とりなしの祈りなどささげる価値がいったいあるのでしょうか。父なる神が介入されない領域があるのでしょうか。


A.

ご両親の心痛はいかばかりかと察します。私たちの息子や娘が道を踏み誤るのを見るほど、神に対して幻滅を感じることはないと思います。クリスチャンの親にとって、子どもの救いほど重要なことは他にありません。人生における他のどんな生き甲斐も成功も、信仰を次の世代に伝える使命に比べれば色あせたものに見えます。やがて天において子どもたちと永遠を共に過ごすには、これ以外には道がないのですから。信者である親たちはみな日夜、子どもたちの救いのために祈ってきました。残念ながら、この祈りに神が即座に応えてくださらないと、とかく神を責めたり恨んだりしがちです。こうしてもう一人の犠牲者が「不信の壁」に行き当たるのです。

主に対するこの怒りは、私たちがとりなしている人々の人生に神がなしてくださること、あるいはくださらないことを私たちがどう理解するかに関わっています。根本的な疑問は、

「あなたの子どもが神に反抗することを選んだとしたら、それでも神はその子がクリスチャンになるように強制なさるのか」  ということです。これは大変重要な疑問です。

神は誰に対しても、ご自分を強制的に押しつけようとはなさいません。もし、神が押しつけがましい方であったら、救われずに滅びる人は1人もいないわけです。ペテロの手紙第二3章9節にあるよう、主は「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」

このすばらしい救いを自分のものにするには一つの条件があります。それは、自らの意志で手を差し出して救いをいただくことです。その人は、罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じなければなりません。この信仰の一歩がないかぎり、赦しと永遠のいのちという賜物を受け取ることは出来ません。

私たちがとりなしの祈りをする意義とは何でしょうか。ホワイト博士の、示唆に富んだ著書『親たちの悲しみ』から引用してみます。

「わが子のためであれ誰のためであれ、いかにとりなしの祈りをしたらよいのか。鍵はこれです。道徳的に、また霊的に盲目となっている眼を開いてくださいと、私たちは確信を持って祈れます。罪人が自分を隠すために使っている自己欺瞞を、真理の光で焼きつくしてください、真っ暗闇な心の洞窟に穴があけられて、光が差し込みますようにと祈ることができます。自分を欺く仮面がはぎ取られて、神のまばゆい光の中で自分が裸であることに気づいて、恐れおののきますようにと祈ることができます。そして何よりも、この世の神(コリント第二4章4節  )によって霊的な暗闇にされてしまった魂に、キリストの御顔の光が照り輝きますようにと祈ることができます。神はこれらの祈りをただ聞いてくださるだけではなく、喜んで応えてくださるという絶対的な確信を持って祈ることができます。

しかし、力ずくでも友や子どもや、伴侶や親が、神を愛し信じるようにしてくださいとは祈れません。抵抗できないほどの誘惑から彼らを救い出してください、とは祈れます。彼らにあらゆるチャンスを与えてくださいという祈りは出来ます。主の美しさ、優しさ、赦しを彼らに明らかにしてくださいとは祈れます。しかし、彼らの意志に反してでも神のみ前にひざまずかせてくださいとは祈れません。『無理にでも神を信じるようにしてください』とは決して祈れないのです」

別の言い方をすれば、主は、本人の意思に反して人をお救いにはなりませんが、主はその人の意思を変える方法はいくらでもお持ちだということです。私たちのとりなしは、とりなされる人の人生の中に神の力を解き放つのです。愛する者の名前や顔を、父なる神の御前に差し出して祈るという特権を私たちは与えられています。祈られている人が人生の岐路に立たされるとき、神は選択肢を明確に示し、正しい選択が出来るように道備えをすることはおできになります。しかし、それ以上には神でさえ入り込まないのです。

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Q.230
それは大変に神学的に深い内容ですね。神がとりなしの祈りにどう応えられ、強情な心をどう扱われるかを知ることは、誰にもできないのではないでしょうか。

A.

全くその通りです。私も、自分自身の疑問すべてに答えを得たわけではありません。私の生まれる前年に召天した母側の曾祖父の祈りを、どう説明できるでしょう。このすばらしい信仰の人G・W・マクラスキーは、毎日午前11時から正午までの1時間を家族の救いと祝福のために祈る習慣がありました。愛する家族のためのみならず、まだ生まれていない幾世代も先の子孫のためにも祈りました。この愛すべきひいおじいちゃんは、私が母の胎に宿る以前に、もう私のことを主に祈っていたのです。

生涯も終わりに近づいた頃、曾祖父は驚くべきことを言いました。この家族は、4世代に渡ってまだ生まれてもいない者も含めてすべてがクリスチャンになると主が約束してくださったというのです。さて、私が実はその4代目に当たるのですが、この4世代の間に、実に興味深い、曾祖父自身も夢にも考えなかったであろう物語が展開したのです。

マクラスキー夫妻には2人の娘がおり、1人が私の祖母で、もう1人は私の大叔母です。2人とも曾祖父と同じ教団の牧師と結婚しました。そして、そのふた家族から合わせて女の子5人と男の子1人が生まれました。その1人が私の母です。5人の娘たちは、やはり同教団の牧師と結婚します。そして残る1人の男子は、同教団の牧師になったのです。

次が私の世代です。ひい孫の中で、いとこのH・B・ロンドンと私が最初に大学に行く年になりました。私たちは大学ではルームメートでしたが、2年生の始めに、彼は自分が牧師になるように導かれていると言うではありませんか。私は、血は争えないと思いました。自分も落ちついていられなくなったほどです。

私自身は牧師になるような導きは1度も感じず、大学院に進んで心理学者の道を歩みました。しかし、私は学者としての生活の中で自分のイエス・キリストへの信仰を語り、教え、著作活動をしてきました。信者で満席になった教会の壇上で講演の順番を待つ間、私はよく曾祖父が私に微笑みかけているのではないかと思ったりします。彼の祈りが4世代にまでも及んで今の私にも影響を与えているわけです。

では、そのことと個々の自由意思や選択の権利はどう関わりがあるのでしょう。これはもう私の理解の域を越えています。ただ言えるのは、神は義なる信者の祈りを重んじられると言うことだけです。ですから、子どもたち一人一人があらゆる悔い改めの機会を与えられるまで、私たちは主の前に頭を垂れ続けるべきでしょう。覚えておくべきことは、神は個人の意思を踏みにじるようなことはなさらないということです。一人一人の個性を重んじながら、かつ私たちをご自身のもとに呼び寄せようとなさるのです。ゆえに、何年もかかったり、万一実現にいたらなかったりしても神を責めるのは筋違いというものです。自由意思の代価とはそういうものです。

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Q.231
ということは、娘が信仰に戻るまで何年でも祈り続けるべきだということでしょうか。同じ祈りを何度も聞かされて、神はお怒りにならないのでしょうか。本当にこれが主の御旨にかなったとりなし方なのでしょうか。

A.

その通りです。あなたの祈りが疑問の余地なく主の御旨である時、例えば娘さんの救いを求めて祈るというような時ですが、応えてくださるまで、その切なる思いを主の御前に訴えるべきだと思います。お嬢さんの魂をかけて、今この瞬間も霊の戦いが激しく展開しており、休戦はありません。勝つためにはあなたの祈りが大きな役割を果たすのです。パウロは「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5章17節)と諭しました。これが「不正な裁判官」のたとえをもってイエスが教えようとしたことではないでしょうか。ルカ福音書のこの部分を読んでみましょう。

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやってきては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。主は言われた。『不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。(ルカ18章1~8節 )

私はこの個所が大好きです。というのは、神は私たちのしつこい祈りをうるさがらないと教えているからです。あきらめないように、いやそれよりもかえって、あなたの切なる思いで天を総攻撃するようにと激励しているではありませんか。私たちが生涯祈り続けるに十分な励ましです。
第二次大戦中、ウィンストン・チャーチルが言いました。  「決してあきらめてはならない。何が何でも、絶対にあきらめるな」

  この勧めは、包囲攻撃されている国にだけではなく、万軍の主の御手を求めてやまないクリスチャンにも当てはまります。もう一度繰り返します。お父さん、お母さん、私たちの第一の使命は、お子さんたちを囲いの中に導き入れることです。これを達成するまで祈りをやめてはなりません。

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Q.232

子どもたちの救いのために、私は妻と一緒にこの25年間忠実に祈ってきました。しかし、神さまがその祈りを聞いてくださったというしるしは、一つも見られません。神さまが私たちの家族を愛しておられることは知っていますが、私はがっかりしています。私たちの信仰がもう一度生き返るようなおことばを何かいただけないでしょうか。


A.

主に奇跡を願っているのに、まだないというあなたのような方々のために、実は励ましのことばがあります。それは、創世記12章1~3節で、私の好きな聖句の一つです。アブラハムが75歳の時に、神は彼に様々な約束を与え始め、「あなたは偉大な国民の父となって、世界のすべての国々の民は、あなたによって祝福される」と言われました。老境にあった彼と、母になりたいと願いつつも不妊であったサラにとって、これは素晴らしい知らせでした。

しかし、このような心ときめく約束の与えられた後も、サラの不妊は続き、神は沈黙を守り続けられました。その時点でアブラハムとサラが経験したことは、「神の自己矛盾」の典型です。神さまはご自分のことばを履行されず、その遅れを説明もされませんでした。起きている事実は、わけが分かりませんでした。辻つまが合いません。サラは、更年期を通り過ぎ、母になる望みは断たれている。彼女と夫は老いており、性欲も減退していたであろうことは推測できます。現実的に見て、相続の子が与えられる見通しは暗かったのです。

そのような絶望的な状況にあったアブラハムの信仰姿勢は、約2000年後に使徒パウロの筆によって記録されています。以下が、パウロが神の霊感によって書いたことばです。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです」(ローマ4章19—22節)

 

 言い換えると、アブラハムは信じるのが無駄と思える時にも信じた、ということです。事実を見れば、「不可能」の3文字でした。神は、約25年ものあいだ空手形を切り続けておられ、約束の成就の望みはありませんでした。「なぜ?」という思いやみことばと現実との矛盾が、2人のあいだに渦巻いていました。

それでもアブラハムは、「不信仰によって神の約束を疑うようなことを」しなかったのです。なぜでしょう。それは、神は人間の理性と目に見える事実を超越されると彼は信じたからです。それで、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれたのです。

信仰が試みられる時のすばらしい例だと思いませんか。辻つまが合わない時にも、霊的な確信を投げ出さない勇気を、私たちに与えてくれます。神においては、何も起きていない時にも、何かが起きているのだ、ということを忘れないでください。もし私たちが揺れ動くことがなければ、いつかは私たちも理解でき、私たちの信仰が、「義とみなされる」のです。

ですから膝を折って、祈り続けてください。そして、溺れそうな人が救命具にしがみつくようにあなたの信仰にしがみついてください。今この瞬間、目には見えなくても、神はあなたのお子さんたちの人生の中に働いておられるのです。

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Q.233
私も家内も、最近信仰を持つようになったのですが、子育てには失敗したなと思っています。今は、成人した子どもの事で、親として後悔が多いのです。親として、今からできる事は、何かありますか。

A.

ずいぶん自分を責めておいでになりますね。母親あるいは父親として失敗したという、なんらかの後悔の念や苦い思い出を抱いていない方は恐らく1人もいないだろうと思います。子どもは、とても複雑ですから、完全な人間がいないように完全な親もいません。日常生活の悩みは尽きません。誰でも疲れ果てて平静を失いますし、体調や気分の上下によって、言うべきでない事を口走ってしまったり、模範的とは言えない言動をしてしまうことがあります。感情的に子どもに当たってしまって、しばらくたって自分の愚かさに気づくこともあります。

そういう失敗は誰にもあります。完璧にできる人はいません。ですから、私たちは神の前にこう祈るのです。

「神さま、あなたは私の不完全さをご存じです。子育てだけでなく他のことでも同じです。精一杯やったつもりですが、足りませんでした。イエスさまが、5つのパンと2匹の魚を何倍にも増やして下さった奇跡のように、今、私の小さな手の努力を祝福して下さい。足りなかったところをあなたが補って下さい。私が満たしてやれなかった欠けを、あなたが満たして下さい。偉大な御手で子どもたちを包み、ご自身のもとに導いて下さい。彼等が人生の岐路に立った時に、導きを与えて下さい。私は私なりにベストを尽しましたから、子どもたちも私も、また親として私のしたことも、すべてあなたにゆだねます。すべてあなたのものです」

 親としての務めが終わった方にとっても、そういう祈りは神に受け入れられると思います。あなたの手の届かない事柄について、罪意識を持ち続けるのは御心ではありません。過ぎたことは過ぎたことです。くよくよするのはやめましょう。結果は神さまにゆだねて、手を離しましょう。そうしたら、神さまの助けの手を体験することができるでしょう。

  「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ人への手紙3章13~14節)

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Q.234

私には、孫が14人おります。よく孫たちの世話をしますし、それが喜びです。でも、ただ子守りをするだけでは物足りないのです。本当によい影響を残すにはどうしたらいいのでしょうか。


A.

何よりも、お孫さんたちをイエス・キリストのもとに導く手助けをしてください。おばあちゃんには、素晴らしいチャンスが与えられています。私の幼い時には特に、牧師であった父の影響よりは、祖母の影響を強く受けました。毎日神さまの話をしてくれました。神さまが、本当の友として家に住んでいるかのように感じました。彼女が天国について話してくれ、永遠にそこに住める幸せを教えてくれたことを私は決して忘れません。あの小柄な祖母は、今天国にいて、子孫が美しい天の都に到着するのを待っているのです。

あなたも、同じように孫たちに接することができます。おじいちゃんおばあちゃんが時間をとるなら、孫たちに大きな影響を与えられます。幼い時にしてあげられることはたくさんあります。もう一つ、あなたができる偉大な貢献は、家族の歴史を孫たちに語り、彼らが先祖に親しみを感じさせることです。

アフリカのフォークソングに、「老人を失うことは、図書館を失うのに等しい」という意味の歌があるそうですが、本当にそうだと思います。あなたの記憶の中には豊かな歴史が刻まれており、次の世代に伝えられなければ永遠に失われてしまいます。
その遺産を継承するためには、昔話をする必要があります。信仰の話、昔の家族の話、苦労した話、失敗談などです。そういった思い出は家族を一つにし、アイデンティティーを与えてくれます。

先に祖母の話をしましたが、もう1人素晴らしい女性がいます。それは曾祖母で、赤ちゃんの私を世話してくれた女性です。私の誕生時にすでに年老いており、100歳近くまで長生きしました。私は、彼女が開拓時代の話をしてくれるのが好きでした。

夜になると昔の丸太小屋の周りをピューマが徘徊し、家畜を襲うのです。ベッドに寝ていた曾祖母の窓のすぐ外を、ピューマがうなりながら歩いていました。彼女の父親は、ぶたやヤギが襲われる前に猛獣を打ち殺すか、追い払おうとしたのでした。私がこの世に生を受けた頃にはとっくに過ぎ去っていた世界の話を曾祖母がしてくれるのを、私はうっとり聞き惚れました。彼女から大草原の物語を聞かされたおかげで、私は歴史が好きになり、今でも変わりません。

昔の話し、子ども時代のこと、おじいちゃんと出会った頃のことなどを、お孫さんたちは喜んで聞いてくれるでしょう。あなたが孫たちに話してあげなければ、家族の大切な歴史の1ページは永遠に失われます。時間をとって、お孫さんたちの目の前に過去をよみがえらせて見せてあげてください。そして何よりも、次代に信仰を受け渡すのです。  

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「ドクタードブソンの一問一答」の翻訳については、ファミリー・フォーラム・ジャパンがティンデール社から許可を得ています。

Excerpted from COMPLETE MARRIAGE AND FAMILY HOME REFERENCE GUIDE ・ 2000
by James Dobson Inc. Used and translated with permission of Tyndale House Publishers.
International copyrights secured.


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