ソロモン王のことばが、そのように明確に解釈できたらいいのにと思います。一般的には、この箇所が神からの保証と理解されていることは私も知っています。しかし、前後の文脈では、そうは受け取れません。
精神科医師であるジョン・ホワイト氏は「親たちの痛み」という優れた本の中で、箴言は元来、神からの絶対的な約束として書かれたものではないと言います。むしろ、そうなる確率が高いと言っているだけだというのです。
箴言の著者ソロモンは、当時の世界で最大の賢人でした。彼の目的は、人間の性質と神の数多くの働きについて、神から霊感された彼の意見を伝えることでした。ある種の状況が組合わさられると、ある特定の結果が生まれることが期待できるということです。
残念なことに、箴言22章6節をはじめとするソロモンのいくつかの見解は、前後の文脈から抜き取られ、それだけで神からの独立した約束であるかのように理解されています。それが正しいとするならば、他の多くの箴言も必ずしも正しくないことを説明しなければならなくなります。例えば、
「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます」(箴言10章4節)
(勤勉なのに貧乏だというクリスチャンに会ったことがありますか? 私はあります)
「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」(箴言10章22節)
「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」(箴言10章27節)
(若く美しい子どもたちが、キリストのために素晴らしいあかしをしながら亡くなるのを私は見ました)
「正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる」(箴言12章21節)
「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する」(箴言15章22節)
「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」(箴言16章31節)
「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16章33節)
「英知を欠く君主は、多くの者を強奪する。不正な利得を憎むものは、長生きをする」(箴言28章16節)
上のような宣言の例外を、私たちはみな思い付きます。繰り返しますが、箴言は神さまの保証付きの絶対的な真理というよりも、「こうなる可能性が高い」と言っているようにみえます。聖書のこういう解釈は、信徒の中では何かと論議を呼びますが、聖書学者たちの間ではそうでもありません。例えば、ダラス神学校の教授陣による『聖書注解書/旧約編』は、私の提案した解釈を採用しています。この注解書は、神のことばを字義通り解釈することで有名なのですが、そこで神学者たちは箴言22章6節について次のように書いています。
「しかしながら、ある親たちはこの勧めに従うように努めたが、ここに書かれたような結果を見なかった。その子らは親の与えた敬虔な訓練からさ迷い出た。この事実は、『箴言』の性格を例証している。
箴言は、一般的な真理が具体的な状況の中でどう働くかを示す、文学的な技法である。箴言の多くは、絶対的な保証ではない。なぜなら、それらの真理はいかんともしがたい状況に条件付けられざるを得ないからである。例えば、箴言22章3、4、9、11、16、29節は、必ず成就する約束を意味してはいない。それらは、一般的にまた普通は真理であるが、時に例外のあることは認められる。それは、知恵の道を捨て、自分の道、愚かな道を行くことを選ぶ人の、わがままや不従順のためかもしれない。そのゆえに、その個人は責任を問われる。しかし、クリスチャンホームで育てられる子の大部分、神の基準を教えられ、また敬虔に生きている親の影響を受けて育つ子らの大部分は、親の訓練に従うという一般的な事実もある」
箴言22章6節は子どもたちの救いを保証していると信じる人々は、要するに子どもが自分で行く先を変えられないほどに、完全にプログラムできるものと思い込んでいるのです。即ち、もし「その行くべき道にふさわしく教育」をしたら、結果は保証されているのだと。しかし、ちょっと考えてみてください。
創造主なる神は、アダムとエバを、無限の知恵と愛をもってとりあつかわれなかったでしょうか。「父親」としての神に誤りはありませんでした。それに彼らは、私たちの直面する邪魔物が何もない、理想的な環境の中に守られていました。親戚の問題も金銭問題もなく、イライラさせられる雇い主もおらず、テレビもポルノもアルコールも麻薬もなく、友達からのプレッシャーも、何の悲しみもありませんでした。言い訳できるようなことは何もなかったのです。
それなのに、2人は神からの明らかな警告を無視し、罪に陥りました。罪の誘惑を避けられる所がどこかにあるとすれば、それこそあのエデンの園だったはずです。ところが、2人は誘惑に負けました。
神さまは愛のゆえに、アダムとエバに善悪の選択権を与えました。そして、彼らはそれを濫用したのです。神さまは、あなたのお子さんたちに同じ自由をお与えにならないでしょうか。アダムやエバと同じく、彼らも究極的には、自分で選択をするのです。その決断の時は、親にとって息を飲む瞬間です。それまでに教えて来たすべてが、試されるように見えます。しかし、それは私たちすべてにとって避けようのない時なのです。
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