男女のちがいのあるものは、育ちによるものであることは疑いありません。だからといって、両性を理解しようとする時に、遺伝や生理や生まれつきを無視してしまうのは愚かです。60年代70年代の急進的フェミニストは、「子どもを生む能力以外に、男女の違いはない」などという考えを売り込みましたが、何の根拠もありません。少なくとも部分的には遺伝と思われる両性の違いを、いくつかあげてみましょう。
女性の生殖能力は、より安心と安定を求める傾向の根元です。言い換えると、子どもに責任を感じるので、女性には将来的なリスクを負いギャンブルをする傾向が少ないのです。個々の情況によって違いはありますが、男女の間にある健全な相違が興味をそそります。
男性は、興奮、変化、挑戦、不確定さ、そしてリスクのある投資による大きな見返りに引かれます。女性は、予測性、継続性、安全、ルーツ、人間関係、また、より安全な投資によって少ない見返りを得るほうが好きなのです。このコントラストが、夫婦にとって最善の結果になります。妻は、夫の衝動的で愚かな傾向に歯止めをかけ、夫は、妻に新しいものへの関心を持たせ、極度に臆病な彼女を、広い世界へといざないます。
医学も、男女のユニークさから来る様々な違いをすべて見い出したとは言いがたいのです。男女が互いに補足しあうあり様に、創造主の知恵を見ます。
関連していることですが、女性は自分の家に示す愛着の強さでは夫を凌ぎます。女性は、家の雑事、家族の動きなどに夫より関心を持つのが普通です。
卑近な例を上げましょう。ある時、私どもは、庭にガスのバーベキューセットを設置しました。配管工が仕事を終えて帰ってから気づいたのですが、セットが20センチほど高すぎました。器具を見て、私は言いました。
「確かに、業者の失敗だ。こりゃあ高すぎるね。ところで、今日の晩ごはんは何だい」
シャーリーの反応は、劇的なほどちがいました。
「あんなに飛び出ててるバーベキューセットなんて、使い物にならないわ。あたし、どうも我慢がならない」
この差は、家庭についての男女の感じ方の違いの典型です。
男女は、競争心についてもちがいます。もしウソだと思うなら、ピンポンやモノポリー、ドミノやバレーボール、テニスなどのゲームに、男女がどのように向かうかを観察して下さい。
女性たちは、友だちと知り合い会話を楽しむためにイベントを使います。ところが男は、そんな生半可な態度はとりません。もし招いてくれたお宅での楽しい集まりであったとしても、額の汗を見れば男の真剣さが分かります。こういう競争心は、すべて親の育て方によるとされて来ましたが、私はそうは思いません。テストステロンと男性の脳の働きです。
「脳:最後のフロンティア」という本を書いたリチャード・レスタク博士は言いました。
「5歳児の誕生日パーティーで、髪をひっぱりパンチを食らわせ、食べ物で友だちを汚すいたずらをするのは、普通は女の子ではなく男の子です」
すでに申し上げた通り、男女の性格の違いなどないとする努力が、過去30年間なされてきました。レスタク博士が書いたような行動は、育て方のせいで修正可能と考えられました。それで、男子が人形やままごとセットで遊び、女子はトラックや大工遊びをするように言われましたが、効果はなかったのです。強烈なフェミニストの母親には残念でしたが、少年はがっかりするほど男性的になり性の垣根を取り払おうとする「トレーニング」では、それを変えられなかったのです。
最後に、個人差はあるものの、ほとんどの女性には母性本能があります。不妊の女性には、子どもを生みたいという願いがあります。母親になれないという強い不満を表現した手紙を私は常に受け取ります。そういう願いには、確かに社会的な影響はあるものの、むしろ女性の身体と生理に根拠のあることです。
以上は、ほんの一例ですべてを網羅してはおらず、また科学的描写でもありません。しかし、こんな皮相的な説明からも明らかなように、神は一つではなく二つの性を造られたのであり、神は手袋が手にフィットするように男女を互いを補いあうように計画されました。どちらが優るのではなく、どちらも個性的です。
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