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結婚 
ドブソン博士
  ドブソン博士の一問一答
Q.415

おっしゃることは、聖書に添ったアドバイスでしょうか。クリスチャンが、夫や妻を好きなようにさせて、手放してしまうなんて、本当にいいことなんでしょうか。


A.

はい、離れて行きたい相手を行かせることは、聖書の中ではっきりと許されているようにみえます。そうでなければ、私もそのような助言はしなかったでしょう。神のことばは人間のすべての行動の基準であり、すべての人間の勧めは神さまのフィルターを通さねばなりません。今の話の文脈では、コリント人への手紙第一7章12〜15節が当てはまります。傍線を引いた所にとくに注意してお読み下さい。

「信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。

しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです」

これは、使徒パウロの筆によるストレートな指示です。手紙の受け取り人は、未信者と結婚しているクリスチャンの男女で、そのうちの何人かは夫婦問題に悩んでいました。彼らに対して、パウロは、離婚は選択肢にはないと疑問の余地なく伝えていました。信仰のない伴侶もいつか主の者とされるように願って、相手に忠実であれと教えたのです。これは、言うまでもなくよい教えです。

しかし、同時にパウロは、他に選択の余地のない人々にも配慮しました。離婚が避けられないケースでは、「信者は伴侶を行かせなさい」と助言したのです。自分がコントロールできない運命を受け入れることは、責めるべきではありません。パウロが言うには、それが平和につながるのです。

ここに、結婚の場面に適用される、使徒パウロによって記された創造者のすばらしい知恵を見ることができます。

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Q.416

家内は、職場の上司と半年間も不倫関係にあります。私は最初から知っていたのですが、今まで彼女に正面から問いただすことができないできました。家内には、もう私への愛情はいないように見えます。もし私が、彼女に最後通牒を突き付けたら、彼女を永久に失うかもしれません。先生は、そんなことはないと保証できますか。これまでに、おっしゃるような「厳しい愛」のアドバイスを誰かにして、それが裏目に出て破局に終わったということがありますか。


A.

はい、そういうケースが確かにありますから、あなたの警戒心もよくわかります。あなたが、きっぱりとした態度を取ったら奥さんがどういう反応を示すか保証できたらと思いますが、そういうわけにはいきません。

残念ながら、人生ではすべての条件が整っているように思えるときでも、絶対に確かなことは少ないものです。十分に調整していた運動選手が心臓マヒに襲われることも時にあります。優秀な親の元に育った子が、反抗をし、薬物中毒者になることがあります。頭が良くて注意深いビジネスマンが、愚かにも破産に追い込まれることだってあります。それが人生です。

あってはならないことが毎日のように起こるのです。それでも私たちは、与えられている最善の情報に基づいて行動すべきです。あるとき、こういうことわざを見かけました。

「速い馬がいつも勝つわけではない。それでも速い馬に賭けるべきだ」

私はギャンブルはしませんが、理屈が通っていると思います。

最初に否定的なことを言いましたが、肯定的な面では、自分をより尊重し自信と落ち着きを示し、身を引き結婚生活という「檻」の戸を開けてあげることには、なんらリスクはありません。そういうアプローチの積極的な効果が即座にかつ劇的に現われることが珍しくありません。愛情の火種がこれっぽっちもなくなってしまった、というのでさえなければ、愛情に裏打ちされた自尊心は、家庭から離れようとしている伴侶の上に必ずよい結果をもたらします。

「檻」の戸を開けたらさっさと出て行ってしまったというのなら、夫婦関係はもうすでに死んでいたのです。ここで、古いことわざを思い出しました。

「愛するものは、手放せ。
戻って来たら、それはあなたのものだ。
戻って来ないなら、それは元々あなたのものではなかったのだ」

この言葉には、偉大な真理があり、あなたの奥さんとの関係に適用できます。

さて、当然ながら危機の時にあわてて事を進めるのは得策ではありません。かんしゃく持ちの人が、中年期の混乱の中にあったり、愛人をつくってしたい放題にやっているなら、いつどのように対応するかには、かなりの機転と知恵が必要になります。

ですから、相手と向き合う前にも最中にもその後にも、クリスチャンのカウンセラーの助言がとても大事です。私なら、被害者の側が、不倫をしている伴侶に24時間の期限をつけて無制限に最後通牒をつきつけたり、または相手をコーナーに追い詰めるようなことはしません。

そのような微妙な争いごとには、最大限の注意が必要です。主の前にささげる十分な祈りととりなしなしにはどのような行動もすべきではありません。

端的に言えば、奥さんの不倫の問題を取り扱うことのできる有能なカウンセラーの援助を仰ぐことを勧めます。

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Q.417

もし先生が、離婚の危機を迎えている人のカウンセラーだとしたら、「厳しい愛」を実行しなさい、という助言をして、結婚生活が破れてしまう可能性もあるわけですね。臆病にはなりませんか。そういうアドバイスをして、後悔したことはないですか。


A.

お答えする前に、私が自分の立場をどのように見ているかを、分かっていただきたいと思います。私の役割は、例えて言えば、外科医が患者に、「心動脈のバイパス手術が必要ですよ」と告げているようなものです。患者は、診察室で、成功不成功の確率を聞きます。医者が言います。
「この

手術は、統計上3%の失敗率があります」

外科医に運命を委ねる100人の患者のうち3人は手術台の上で死ぬのです。どうして好んでそんな危険に身をさらす人がいるのでしょう。それは、手術をしなければ、死ぬ確率はさらに高いからです。

「厳しい愛」式の対決と最後通牒も、それと同じです。2人の関係が突然に終わることもありえます。しかし、その危機をあえて避けても、ぐずぐずと長引くだけで、結局破局を迎える可能性は高いのです。いやしの可能性があるうちに問題の解決を計るのでなければ、あとは結婚生活の悲しい終結を指をくわえて見ているしかありません。私なら、さらなるダメージが加えられる前に、一か八かやってみるでしょう。徐々に空気が減って行くよりも、パンクするほうがまだいいのです。

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Q.418

私たちはもうやり直しが利かないように思えます。主人は女性を何人も作っており、離婚すると言っています。希望はまだあるでしょうか。


A.

具体的なことが何もわからないまま答えるのはどうかと思いますが、これだけは言えます。あなたと同じようなことを言っていながら、今は幸せにしている何十もの家庭を私は知っています。

教会で、若いカップルのクラスを私は何年も教えましたが、出席していた保守的な教会で驚くほど不倫が多かったのです。ある時、不倫をしているか、かなり危ないところにあるという19ものカップルをお助けしていた時期があります。今でも私は彼らを知っていますが、このうち9家族は10年後の今、幸せな結婚生活をしています。

低い率だと言われるかもしれませんが、この人たちの結婚は破滅の淵まで行きながら救われたことを覚えておいてください。キリスト教信仰が重要な要素でありましたが、その回復には厳しい愛が必要でした。ですから、希望はいつもあるのです。

最後に励ましのことばをさしあげましょう。人間の感情ほど、変わらないように見えながら実はすぐに移り変わるものはありません。男女の愛に関しては、一日二日で感情は180度変わることもあります。

「もう二度とあなたには会いたくない」などと言った夫や妻が、数時間後には相手の胸に泣き崩れるのを私は何度も見ました。ですからあきらめないでください。神は、あなたとご主人を見捨ててはおられません。

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Q.419

夫は過去3か月女と暮らしています。もし彼が彼女のところから私のところへ帰ってきて「赦してほしい」と言ってきたらどうしたらいいでしょう? 二つ返事で受け入れ、浮気などなかったかのようにしたらいいのですか?


A.

もちろんご主人を受け入れてあげてください。それが私の書き表わしてきたすべての本の趣旨です。

しかし、そこでこれからのことについてご主人とじっくりと話し合うことを強く勧めます。何もなかったかのように安易に済ますべきではありません。「すぐさまカンセリングを受ける」という約束を書面にしてもらいなさい。何週間も延ばしてはいけません。変えようという真剣な努力をしないかぎり、古い習慣は残ります。

あなたの家庭には癒されなければならない深い傷口があり、癒しはひとりでに起きるものではありません。ご主人には「二度と不貞は許しません」と明確に伝えてください。彼が真っ当な生活に戻るにはその覚悟が必要です。一回でも脱線したり恋愛遊戯などをしたら今の結婚生活は終りだと、ご主人は胆に命じねばなりません。妻は本気だと知ってもらうのです。少しでも気が揺らいでいるようなら、もう1、2カ月彼を家に入れないで、考え直すのを待つのです。数年後にまた不倫される苦悩を味わわされるよりは、今結婚生活の終りを覚悟して待つほうがまだましです。

  最後に、家庭内での信仰生活のオーバーホールをすることです。罪によって浸食された結婚生活を築き直すには、神のいやしの力と恵みが必要です。

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Q.421

家内が私を見捨てて別の男のもとに走った時、私は「すべて自分のせいだ」と、感じました。実は、今もそう感じています。自分は、他の女性に目を留めたこともありません。それなのに、家内の不倫は自分のせいであるように感じるのです。理屈で考えれば、私は余りにも自分に厳しすぎることは分かりますが、どうしようもありません。助けて下さい。


A.

裏切りをした伴侶の行動の責任が、すべて自分のほうにあるかのように思うのは、あなたのような見捨てられた側によく見られる、典型的な反応です。

被害者、つまり相手の無責任な行動の明らかに犠牲者である人が、一番罪意識に悩まされ劣等感に苦しむのです。不思議なことではあります。相手からあからさまに拒まれながらも、なんとかしようともがいていた本人がこんなふうに考えてしまいます。

「なにが、いけなかったのかしら? きっと、あたしが女らしくなかったからだわ。
もうちょっとあたしが、ましな女だったら、他の女に手を出すはずがないのに。
もう少しセクシーにすればよかったんだわ。やっぱり、あたしがいけないんだわ。
あたしって、きれいじゃないもの。そもそも、あたしが、妻としてふさわしくなかったのよ」

結婚生活の不和の責任が、どちらか一方にしかないことはまれです。「喧嘩、両成敗」というように、離婚の責任の幾分かは、いつも双方にあります。

ところが、夫婦の一方が無責任な行動をとり不倫相手を見つけるか、家庭人としての常識も義務も投げ捨てようと決めてしまった時、その人は普通、相手の落ち度を大袈裟に述べたてて、自分を正当化しようとするものです。

「お前が、俺の必要に答えてくれないから、誰か他の女を見つけなくちゃならなかったんだ」というのは、よく聞く言い草です。このように相手の罪意識を増すことによって、彼は自分の責任を減らそうとしています。自尊心が低い夫または妻は、そういう責め言葉や批難を反論できない事実であるかのように受け入れ、心にためこんでしまいます。

あなたは、すべての責任を引き受けようという誘惑には抵抗すべきです。私は決して、
「奥さんを思い出しては、うじうじとうらみごとを言い続けなさい」
と言っているわけではありません。そうではなく、事実を注意深く検証するようにと勧めているのです。以下のような質問を、ご自分にしてみてください。

「自分には確かに間違いや失敗はいろいろあったが、それでも家庭を大切にして、家族を守る努力をしただろうか。

家内は、自分から家庭を壊すことをしながら、自己正当化しようとしているのだろうか。
一番イライラする部分を解決するために、自分は正当な機会を与えられただろうか。

彼女が望むことをすべて自分が受け入れてやったら、それでも彼女は家にとどまっただろうか。
起きてしまったことについて自分を責めることは理にかなっているだろうか」

あなたが、事実を客観的に見られたなら、ご自分が結婚生活の失敗者なのではなく奥さんの無責任な行動の犠牲者なのだということが分かってくると思います。

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Q.422

家内は、家を出た時、私に罪意識を持たせました。私は、懸命に家庭を維持する努力をしたのですが、彼女は、離婚は私のせいだと、激しく責めました。私は完全な人間ではありませんが、彼女を愛する努力をしましたし、自分のほうから離婚するなどとは考えませんでした。でも、彼女の頭の中では、私が夫としてだめなので、彼女が上司と不倫せざるを得なかったということになるのです。信じられますか。自分が姦淫を犯しながら、私を責めるのです。


A.

奥さんは、自分の罪をあなたに転化しようとしています。不倫をする人は、ほとんど似たようなことをします。罪意識は大変苦痛であり、新たな愛人と関係している人は、それを強く感じています。そういう人たちは、自分の良心の責めをまぎらわす手立てが欲しいのです。彼女は、家庭を破壊し結婚相手を裏切り、子どもたちを傷つけその将来を危うくしました。そのようなけしからぬ行いは、なんらかの説明を必要とします。それで、道徳的な責めに対して必至に自己弁護を始め、それで普通は夫や妻を責めるのです。

不倫の犠牲者に聞いてみて下さい。彼らは恐らく、いくつかの罪責感の源を処理するための四つの具体的でもっともらしい説明を聞いたことがあるはずです。

1 既婚者としての罪責
「自分がしようとしていることは今は辛いことかも知れないけど、これが最善だってことがいつか分かるよ。

若い頃だって、僕は君のことを愛してはいなかったんだ。そもそも、僕達は最初から結婚なんかすべきじゃなかった。それに、この離婚も本当は君のせいだ。

だって(ここに苦情の種を挿入してください。例えば、「君は不感症なんだから」、「親戚関係に問題が多いよ」、「小言が多すぎる」、「働き過ぎだ」、または以上のすべてです)」

この言い訳には、見え透いた目的があります。最初の文ですが、それは不実な伴侶の動機をみごとに浄めています。つまり「これは君のためなんだ」と言っているのです。

二番目の文章も、たいしたものです。愛する者を見捨てるんだという残酷な言い方を避け、結婚の無効を言い渡すように意図されています。「そもそも結婚すべきじゃなかったんだ」という言い方によって、結婚が、神の定められ結ばれた関係ではなく、不幸な失敗になってしまいます。(ヘンリー八世も、最初の妻アラゴンのキャサリンを追い出すのに、この言い訳を使いました)

それから、残りの責任を相手に押しつけることによって、罪ある側から被害者の側にすべての責めは移されてしまいます。結婚の誓約はこれで一巻の終わりです。次は子どもの問題に移ります。

2 親としての罪責
「子どもたちも辛いかも知れないが、長い目で見ればいい結果になるさ。
今までのように親が喧嘩したり言い争ったりするそばにいるのは、精神衛生上よくないもの。
それに、僕も落ち着いたら子どもたちとの時間も今と同じくらいとれるし」

子どもについての罪意識も、ばっさりと切り取られ処理されています。父親が他の女性と駆け落ちすることや、母親が他の男と夜逃げすることが、建設的なことだなどと誰が信じるられるでしょう。子どもたちがその大きな美しい目で見、また理解することなど、心に留めてはいません。

「ママやパパはなぜ家を出たの、
なぜもう愛してはくれないの、
神さまはなぜこんなことを許されたの、
離婚が、なぜ自分たち子どもの責任なの、
なぜ人生は、辛くて恐ろしいところなの」

こういう疑問に対して、子どもたちが引き出す結論についても、まったく関心を払っていません。感じやすい子どもの人生において、すべて信頼できるものが壊されてしまった事実など無視しています。「もうそんなことは、考えることをやめれば、心臓のドキドキも静まるさ」と言わんばかりです。

子どもについての罪責は、言い逃れが一番むずかしいのかもしれませんが、幸い今は、良心の痛みをしずめるのに役立つ印刷物やテープがいくらでもあります。

3 社会的な罪責
「友達は、すぐには分かってくれないだろう。君のお母さんがなんと言うかも聞いてみたい。でも、先週牧師さんに言った通りで、僕達が離婚するのは誰の責任でもないんだ。僕達はふたりとも成長して、お互いに合わなくなったと言うのかな。年を取れば人は変わるものだから、それに応じて、二人の関係も変わらなけりゃ」

(女性なら、こう言うかも知れません。
「それに、わたしもたまには自分のために最善のことをする権利があるわ。今まで人のために自分の人生を使って来たから、今はあたし自身のことを考える時間よ。いつかはわたしの出番があってもいいじゃない、今がその時なの。とにかく、あたしにとって正しいことは、あなたにとっても子どもにとっても最善の結果になるはずだわ」)

こういう言い逃れは、ほとんど一字一句、急進的なフェミニストの言う言葉そのものです。これは、単なるわがままが浄められ、いかにも利他的であるように作り代えられた多くの言い逃れの一つにすぎません。これで3つ終わりました。もう1つあります。

4 神からの罪責
「僕は、祈って決めたんだ。この選択は、神様のみこころだと確信している」

 これこそ、究極の言い逃れです。もし創造者が、その最高の知恵によって問題を考慮し、離婚がすべての関係者にとって最善だと判断したのなら、だれが議論を続けられるでしょう。対話は終わりです。罪が、きよめられてしまったのです。罪責は抹殺されました。自尊心は回復され、なんと悪が勝利したのです。

以上4つの罪責が処理され、すべての道徳的、霊的障害は取り除かれました。さらなる不貞とそれに続く離婚への舞台は整ったのです。

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Q.423

私はずっと、結婚とは無条件の愛に基づくものと思って来ました。つまり、互いへの献身は、相手の行いがどれほど非礼だったり、不実であるかに関係がないということです。でも、先生の言われる「アカウンタビリティー(説明責任)」によれば、「私の願うことをしてくれる限りは、あなたを愛します」ということになると思いますが。


A.

それは誤解です。ことばには限界があるので、この概念をじょうずに説明するのはむずかしいのですが、もう一度やってみましょう。

私も、無条件の愛は有効だと思っています。実際、私が勧める「相互のアカウンタビリティー」は、その愛の表現方法の一つなのです。

例えば、夫が自分自身や夫婦関係や、また不倫相手の家庭を破壊するような行動をしているなら、彼ときちんとした話し合いをすることは、愛の行いになります。罪のない側にとって一番安易なのは、あさっての方向を向いて知らぬ振りを決め込むことです。

しかしそれは、私に言わせれば、14歳の子が朝の4時に帰っても、親が何も言わないのと同じです。自分を台なしにするような子どもの行動を見たら、父も母も厳しく問いつめる責任があります。子どもを愛しているならそうせざるをえません。

私が言いたいのは、「無条件の愛とは、放任主義、受け身、弱さ、そして宥和主義とは同じではない」ということです。厳しさ、規則の尊守、そして説明責任を要求することもあるのです。

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Q.424

「厳しい愛」という先生の教えは、これまで私が牧師から聞いて来たことと矛盾します。それは、「信者には、自分の権利というものはない」という考えです。私の理解が正しければ、私には自己弁護する権利もないのだから、もし失礼なことをされてもそれを気に留めるべきでない、ということです。先生は、これに反対でしょうか。


A.

ある意味では、反対です。ここで、理解していただきたいのは、結婚相手に説明を求める人は、自分の「権利」を擁護しているのではないということです。そうではなくて、結婚生活を守ろうとしているのです。夫婦関係を危うくする行動について、真正面から取り扱おうとしているのです。ですから、それはわがままなことではなく、二人がいっしょに築いたものを守ろうとしている訳です。
夫婦がともに大人で、わがままでなく愛情があるなら、「クリスチャンには、権利はない」という考え方には、何の問題もありません。しかし残念ながら、私たちは皆不完全で、自分を喜ばせようとする欲望に惑わされているのです。ですから、私たちが正しいことを行うためには、補強とアカウンタビリティーが必要なのです。

夫婦のどちらか一方だけが、「権利なし」という概念を受け入れそれをそのまま実行しようとすると、結婚生活は破たんする恐れがあります。なぜでしょうか。

それは、それに参加しない伴侶が、「尊敬のライン」をあちこちで踏み越え始めるからです。お金にしても、セックスにしても、夫婦間の主導権にしても、娯楽についても、自分の好き放題にしてしまうからです。信仰を持っているあちらが「神の命令に従って、権利を放棄した」のだから、自分は好きにしていいというお墨付きをもらったように感じるのです。

こういう信仰的な理解にしがみついているクリスチャンの既婚者でも、血も涙もある人間です。その目は、節穴ではありません。相手から次々と失礼なことをされて、それらをすべて無視しようとやっきになります。しかし、本人が望もうと望むまいと、そのすべては記憶の貯蔵庫にためられます。そして、ある日、抵抗力が弱くなっている時、例えば疲れている時とか、女性の場合なら、月経前の緊張が高くなっている時に、爆弾が炸裂し相手を仰天させます。

「自分にはなんの権利もない」という立場は、限られた時間であれば大丈夫でしょうが、残念ながら人生はマラソン競争のようなもので、ランナーは心臓破りの丘にかかると足元がよろめいてしまうのです。

ここで、取急ぎ、重要なただし書きを加えさせて下さい。

「尊敬のラインを守りなさい」という勧めも含めて、どんなアドバイスも極端にとらえられると困ったことになります。何やかやと相手のあらさがしをし、小言を言う口実を求めている、とくに多くの婦人方がおります。それこそ、彼女たちのお手のものです。かわいそうな主人方は、自分が一つもうまく出来ないことを思い知らされ、絶え間のない小言と批判に日々耐えています。そこに、ドブソン博士から「ご婦人方、夫の行動には、きちんと説明を求めなさい」と言われてしまったら、たまりません。

私は、そういうことを言おうとしているのではありません。第一コリント13章5節では、
「(愛は)……怒らず」と言われています。そのような忍耐は、健全な夫婦の間には明らかです。夫も妻も、お互いの中にある多くの欠点を見過ごすべきであり、自分の目の中から梁が飛び出ているのに、相手の目のちりについてわめきちらすべきではありません。怒りが長引くと、夫婦の愛の火を消してしまいます。それが、過去から引きずっている相手の過ちを赦していない時には、ことにそうです。
そういう訳で、「厳しい愛」という概念は、「怒りっぽく口うるさくしなさい」ということではもちろんありません。相手に失礼なことをした際には、それを互いに認めあい、愛の雰囲気の中で取り扱うべきだということです。そしてもちろん、夫婦関係が危うくなるほどの重大な違反があったときには、厳しい対決をすることも臆すべきではないということです。

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Q.425

うちの主人は女たらしで、女性と見ると誰にでも手を出したがります。主人はもう変わらないでしょうか? 変えることはできますか?


A.

だれであれ人を変えるのは、不可能とは言わずともむずかしいことです。はっきり言えるのは、責め、不平を言い、懲らしめても無駄だということです。そうすると、男はますます深入りし意固地になります。奥さんができることは、ご主人が妻と愛人の両方を自分のものにしておくことはできないこと、すなわち妻への愛情と見境のない情欲とを区別すべきことをはっきりすることです。

残念ながら、この二つの選択肢を単に並べるだけでは、ご主人は決断しないでしょう。双方とももてあそび続けたいのです。ですから、あなたが厳しい愛をもって、すなわちご自分のことばに断固とした行動をもって裏づけをするべき時が恐らく来るでしょう。その困難な時に、神さまはご主人を変えることができ、その危機は彼の目を開かせる機会となるかもしれません。

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「ドクタードブソンの一問一答」の翻訳については、ファミリー・フォーラム・ジャパンがティンデール社から許可を得ています。

Excerpted from COMPLETE MARRIAGE AND FAMILY HOME REFERENCE GUIDE ・ 2000
by James Dobson Inc. Used and translated with permission of Tyndale House Publishers.
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