私の見る所では、親が怒りによって子どもをコントロールしようとするまちがいだろうと思います。どんな年齢層であっても、怒りで人を動かそうというのは最も非効率的な方法です。
それなのに、多くの大人たちは子どもをしつけるのに、自分の感情的な言動に頼ろうとします。ある先生が、全国向けテレビ番組で言っていました。
「教師としては誇りを持っています。でも毎日子どもたちを教えるのはイヤで仕方がありません。生徒たちは全く言うことを聞かないので、教室の秩序を保つために絶えず怒っていなければなりません」
明けても暮れても、嫌みで怒りっぽい先生を演じつつづけなければならないとは、何ともご苦労なことと言わねばなりません。しかし多くの先生や親は、それ以外の指導を知らないのです。これでは疲れますし、効果がありません。
自分自身がどういう風に人から動かされ、人の怒りにどう反応するかを考えてみたら分かり易いでしょう。
今晩帰宅途中に60キロばかりスピード違反をしたとしましょう。街角にお巡りさんが立っていますが、あなたを捕まえる方法がないとします。パトカーもオートバイも持っていません。肩章もピストルも青切符もありません。できることは、ただ街角に立ってスピード違反をしているあなたに向かってののしるだけです。お巡りさんが顔を真っ赤にしてこぶしを振り上げるのを見て、あなたは減速しますか? しませんよね。そばを通り過ぎながら手を振って挨拶するかもしれませんね。怒ったからといって、お巡りさんは何も成し遂げることはできません。ただ漫画のように見えるだけです。
一方、バックミラーの中に黒と白の車が頭上に赤いランプを回しながらあなたに近づいてくるのをバックミラーで見ることほど、あなたの運転を変えるものはありません。路肩に停車すると、威厳があり礼儀正しい警官が運転席に近づいてきます。2メートルもあろうかという大男で、ローンレンジャーの様な声をし、銃を右の腰に下げています。
彼は丁寧ながら毅然とした態度で言います。
「お急ぎのところ恐縮ですが、レーダーよると40キロ制限のところを100キロで走っておられたようですね。免許証を拝見します」
警官は革表紙の召喚状を開いて、あなたの方に顔を寄せます。敵意を表したり、非難をしたりはしないのに、あなたは無抵抗です。まごまごしながら、気に入らないポラロイド写真のついた免許証を財布の中から取り出します。
なぜあなたの手は汗ばみ、口はカラカラなのでしょう? どうして心臓は喉から飛び出しそうなほど脈打っているのでしょう? それは、警官がしようとしている手続きが不愉快極まりないからです。あなたのこれからの運転癖を劇的に変えてしまうのは、警官のこの一連の行動なのです。
怒りではなく、懲らしめがお行儀を直すのです。実は、大人の怒りは子どもの心に軽蔑心を引き起こすと私は信じます。「親が怒るのは、事態をどうにもできないからだ」と、子どもには映るのです。正しいことを教えようとするのですが、効果がないのでやたらと手を振り回し、涙を流さんばかりにして実行もしない脅迫をくり返すのです。
お聞きしますが、あなたご自身はそんな感情的な方法で法律を守らせようとする裁判官がいたとしたら、尊敬なさるでしょうか? 答えを待つまでもありませんね。ですから、法律の世界は意図的に、客観的で合理的で、威厳に満ちたものとされているのです。
私は、親たちや先生方が自然な感情を子どもたちに見せるなと言っているのではありません。あるいは、すべてをうちにしまいこみ、応答をしない、面白味のないロボットのような人間になれと言っているのでもありません。子どもが侮辱的な態度を取ったり、不従順になることはありますし、私どもがいらだつのも無理のない場合はあります。そういう場合は、むしろ怒りを表現するべきです。さもなくば、偽善者でしょう。
私の言いたいのは、怒りがしばしば子どものお行儀を直すための道具として意識的に使われるということです。しかしそれでは効果がないばかりか、信頼を失うことにもなるのです。そうではなく、あなたの子どもに適当な罰を定めるようにするのです。そして、冷静にそれを実行してください。
Qのページへもどる |